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  物語 - その他関係
49 - 石見銀山奉行  私の先祖  竹村義明
 
             
 

石見銀山奉行  私の先祖            竹 村 義 明



               石見銀山 ユネスコ世界遺産


2007年(平成19年)7月、石見銀山の遺跡はユネスコ(国際連合教育科学文化機関 United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization)により、世界文化遺産(World Heritage Site)に指定された。

石見銀山は戦国時代後期から江戸時代前期(西暦1570-1650年頃)にかけて、その名を世界地図に載せた時期もあった。しかし、銀埋蔵量の減少につれてその規模も縮小し、近年は全く忘れられた存在になった。江戸幕府末期の慶応年間には銀ではなくて銅の採掘となり、石見銀山の終焉を迎えて徳川幕府の所領からも離れてしまった。このような事情で、石見銀山遺跡の中心地の町大森は、文字通り山陰(さんいん・やまのかげ)にあり、近年は訪れる人もまばらになった。ところが、2007年のユネスコの指定登録により、大森町は再び一躍歴史の表舞台に押し出された。

世界遺産石見銀山の登録住所は島根県大田市大森町である。この大森地区は、昔は大森と佐摩の二村があったので、かつては大森銀山とか佐摩銀山と呼ばれたこともあった。この度の訪日の際、世界遺産指定以来二度目の訪問ができた。

JR 山陰線太田駅で下車し、石見交通バス川本線、世界遺産センタ-行き又は大森行きバスに乗車すると、約30分で目的地の「大森代官所跡」に到着する。下車すると、すぐ前に石見銀山資料館がある。これが昔の代官所である。ここで、この度の世界遺産認定の根拠となった多くの資料の説明、銀採掘と精選の模型、四百年に亘る銀山の歴史資料の展示などを見ることが出来る。ここを出て、

道の両側に古い昔の家や武家屋敷や店の並ぶ街を通り抜けると、やがて銀山ゾ-ンに入り、昔のままの坑洞(坑道)に古人を偲び、深山の風光を楽しむことができる。その昔、四方が山また山の静かなこの地に、何千何万もの坑夫が去来したかと想うと、見る物すべてが興味深々である。

発見初期、この石見銀山は土面に露出するほどの豊富な埋蔵量を持っていた。そして、戦国時代後期からこの銀山支配をめぐって大内、尼子、小笠原、毛利などの西国の武将が争いを繰り返してきた。日本が世界の三分の一の銀を産出し、その採出量が世界一だった時期もあり、、日本一の大森銀山の名は世界地図にも載った。

天下分け目の関ヶ原合戦(1600年 慶長5年10月21日)で勝利を収めた東軍の将.徳川家康は、ただちに1600年 慶長5年11月、銀山を毛利輝元から引継いだ。慶長6年に石見銀山初代奉行に石見守大久保長安が着任し、慶長18年まで13年間在任した。

織田信長が京都の本能寺に滞在中、明智光秀の謀反による本能寺の変(1582 天正10年)が起こった。信長死去の知らせを受けた時、河内国の堺に出向いていた家康は、直ちに尾張三河に戻り、家来をつれて出直そうとするが、明智の勢力範囲の丹波と近江を横断突破は危険をはらんだ。やむなく伊賀国の険しい山道を越え、伊勢国からは船に乗り海路尾張三河に辛うじて帰り着いたが、この際の家康の危機を救ったのは奈良の出身で信長の家来、竹村道清だった。家康は受けた恩義を忘れず、道清に丹後守を拝命した。関ヶ原合戦の勝利の後、家康は石見銀山を手中にすると1906年初代奉行に大久保長安を置くが、道清は1910年に大森に来て長安と銀山運営に関わった。

慶長18年(1613)初代奉行大久保石見守長安死去し、竹村丹後守道清(1562-1635)が二代目奉行に就任し、寛永12年(1635)の死亡まで22年間在職した。歴代九人の奉行中、在職任期は最長だった。奉行職は第九代まで続いたが、銀の採掘量が減って延宝3年(1675)以後、大森奉行所は大森代官所に格下げになり、銀山奉行は銀山代官となった。現在の大森代官所は元の奉行所である。

竹村丹後守道清の奉行在任中、大森銀山(石見銀山の当時の名前)は繁栄を極めた。奉行所を奥地から大森の現在地に移転して銀山町づくりを始め、近辺には幕府役人屋敷、店屋、宿屋も増えて大きく変わった。そして、人口は20万、寺は100ケ寺に達した。山の間の谷間に沿って、約3キロの細い街道の両側には、家屋敷が立ち並んだ。道清はまた、奉行所の裏山中腹に、荘厳な浄土宗寺院・勝源寺と鐘楼を建立(共に現存)した。奉行になって三年目の1616年(元和2年)に徳川家康が死去したが、翌年には寺の右隣りに、日光東照宮にあやかって東照宮を建立して供養した。東照宮は今も現存する。

蓮教寺の寺誌によると、「竹村丹後守は木佛尊像を供奉して赴任するや、ただちに銀山栃畑谷を開き、一宇の坊舎を建てて尊像を奉安し朝夕礼拝供養を怠たざりき」であった。この栃畑谷にあった「一宇の坊舎」は、百四十三年後(今から二百六十年程前)に石見国安濃郡長久村(島根県太田市長久村用田)に移り、現在も浄土真宗本願寺派 蓮教寺として存続している。住職は竹村一秀である。彼の祖父と私の父は兄弟である。

蓮教寺の創建当時の宗派は、勝源寺と同じ浄土宗の寺院ではなかっただろうか?竹村丹後守の辞世の句は 『 たのみおく 弥陀の誓ひの しるしあり 涼しくぞゆく 極楽の道 』  である。寛永12年(1635)道清死去の後、彼の息‛竹村萬嘉が第三代奉行に就いた。

蓮教寺本尊の阿弥陀如来は濃紫塗黒色木像で、蓮華台座と光背抜きで身丈は二尺(60センチ余)もあって、本願寺末寺では見かけないひときわ大きい仏像で、寺誌には48部分に解体できると記されている。そして、その胎内には聖徳太子作の言い伝えがある古めいた胎内佛が入っている。江戸時代に京都本山へ由緒記述の古文書を届けたが行方不明になったとか。

かねてより蓮教寺の身内から、石見銀山の竹村丹後守道清が「私たちの先祖のこと」は聞いていたので、ユネスコ世界遺産指定は実にうれしい。銀山の歴史を振り返り、彼の功績の大きかったことを確認できて、子孫としての誇りを覚えている。

私は今アメリカに住んでいるが、家族そろって石見銀山遺跡を訪れて、銀山奉行としてその任務を立派に果たした竹村道清の墓前に詣でて、末裔としての喜びを伝えたい。 


おわり  November 2016




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