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日系一世の奮闘を讃えて

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  物語 - その他関係
47 - 再 会 と 別 れ  1973 山崎清一
 
             
 

再 会 と 別 れ               1973  山崎清一


奉公をすませて関東軍に入隊したが、終戦の翌年に僕は復員で満州から引揚げ 帰国した。今の僕の妻になっているのは、祖国の敗戦を信じかねた両親に連れられて、アメリカのツールレーク収容所から、その年に日本へ引揚げてきた。そして僕と結ばれた。

英語の殆ど話せない僕と、日本語が辛うじて分かる程度の二世娘が、どうした経緯で結婚まで進んだのか、詳細をよくみんなに尋ねられたものでありますが、あの頃はまだ終戦後まだ一年も経っていない頃でしたから、全てがまるでまだ戦争でもしているような日本だったのです。女性にしましても、銃後をしっかり守り抜いた逞しさがみなぎり、赤銅色に日焼けした肌にモンペ履きの姿は、まさに男勝りのりりしさがありました。その頃、妻は、ハイヒール、ネッカチーフ、ハイヒール靴、冬にはオーバーコートの出で立ちでした。

しばらくして渡米しましたが、歳月の推移は速くどんどん過ぎ去った。「母病む。もう長くない」の便りを読み、急遽訪日し、母との最後の別れをした時のことです。 

二年前の冬、日本に帰った。日本の弟からの「もう母も長くなかろう」という手紙を読んだからである。十七年ぶりの帰国だから、土産にも交際費にもウンと金がいるだろうと銀行に頼んだら、心良く僕の頼みをきいてくれたのでうれしかった。金を貸すのが銀行だなどと割り切ってはバチが当るような気さえした。

日当たりのいい離れの座敷で、母は火鉢を抱いて座っていた。そして予告もせず、バケモノのように現れた僕を見て、「お前、ホンマに清一か」といい、「ああ、これでいつ死んでもいい」と言って泣き崩れてしまった。

僕はそんな母を見ながら、“帰ってよかったヨ、銀行で借金したような帰国だけどヨー”と思い、僅か一ヶ月だから少しでも母のそばにいよう、そして、どんな話でもいい、母の話し相手になってあげようと考えていた。

こうした感激の日から、マタタクマに一ヶ月が経ち、再びアメリカに戻らねばならなぬ日が来たのだから、あの日が母との最後になってしまった。ゆっくり別れを惜しみたいと母も思ったであろうに、周囲はただ賑やかな送別だけしか考えてはくれなかった。

学友が七、八人早朝から家にやって来て、出発の間際までいた。だから今別れたら、もう絶対に会うことがないんだと、僕も母もはっきり承知しながら、それを味わう雰囲気にはしてくれなかった。だから、杖をついて門口まで出てきた母から「清一、さようならヨ、からだに気をつけて」とかいう、かすれた声をきくだけに過ぎなかった。僕もまた、明日また帰ってくる旅行にでも行くような言葉で「帰るヨ」とだけ言った。 

母屋から一丁も離れていないところに、弟の店がある。この店の前で、しばらく写真を撮ったりするうち、いよいよ友人達とも別れる時刻が迫っていた。ここからは、ごく親族だけが紀州白浜温泉飛行場まで見送ってくれるのである。

このころになって僕は、さっきから落ちつかずにいるのが、どうしてだかをはっきり自覚することが出来ていた。それで、集まっている皆には「忘れ物をした」と嘘をいい、店から母屋にもういちど走り戻ったのである。ここで今別 れてしまったら、もう二度と生きた母は見られないのだと思うと、さっきのような別れでは、余りにもはかないと思い出したからだ。

「どうかしたのか」と、母はあわただしく駆け込んだ僕に向かって言った。みんな出払った母屋に一人で母は矢っ張り火鉢を抱いて座っていた。僕は「うん、なんでもないけど、ホンマニ帰るヨ」と返事した。僕の声もかすれていた。面と向かうと、心にあるほど深刻にふるまえないのはどうしてだろうか。母は火鉢からイザリ寄ると、突っ立っている僕の手を握って「ヨーもどってくれたね、もうお前には会えずに死ぬと覚悟していたのに、嬉しいヨ」と、また泣き崩れてしまった。あの時のあの母の手の温もりを、今も忘れない。


山崎清一

1973年9月27日 木曜随想   羅府新報 新聞 掲載




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