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物語 - その他関係
45 - 帰米二世 - Masao Yamashiro - 山城正雄 |
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帰 米 二 世 Masao Yamashiro 山城正雄
帰米二世が日本に送られて育った時代には、満州事変、上海事変、日支事変と三つの戦争があった。そして、彼らの多くは、自分の意思であったにせよ、親の判断であったにしろ、この三つの戦争の前後に帰米している。戦争へ戦争へと日本の国が確実に流されている時、そこから脱け出す扉がアメリカの方向に開いていたことは、帰米二世にとって幸運だったと云わねばならない。しかしながら、彼らはこちらに帰って来て、予想もしなかった困難と不幸の道を歩まねばならなかった。帰米二世にとって、「帰米二世」とは何だったのだろうか。 一世にとって帰米二世とは、すでに出来上がった日本人社会の日常的なものの意味する跡継ぎだったし、英語を話せない自分たち一世のもっとも便利な人生の旅の若い同伴者だった。まだ「帰米二世」という言葉が生まれない以前は、「日本育ちの二世」と云えば、年頃の娘に手を出す「手の早いイヤなヤツ」と思われていた。また、この国に居残った兄弟や日本にいる間に生まれた弟や妹との意思の疎通は不完全で、多くの問題をかもし出した。純二世にとって、帰米二世とは異母系の兄弟みたいなもので、その精神上の距離はそれ以上に遠かった。言葉も風采も親たちに似ている彼らに対して優越感を抱いたのは云うまでもない。この帰米二世は日常会話では、普通「帰米」と呼ばれた。 「帰米」という言葉が、一つの熟語となったのは、この日支事変の前後に帰米した日本育ちの若者が、それとなく目立つようになった頃である。それ以来、彼ら帰米二世は、アメリカ社会と家族の二つの偏見の中に生きなければならなかった。
(1971年12月21日 ロサンゼルス 羅府新報に発表) 山城正雄 著 「遠い対岸」より抜粋 (著者自身は帰米二世)
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