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物語 - その他関係 40 - 一世パイオニア資料館 - 竹村義明 |
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一世パイオニア資料館 |
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1957 年早春、サンタバーバラの太平洋に面した丘の墓地で、開教使となって最初のお葬式をした。そこで郡役所の係官と待ち合わせて、二人で木棺を車から降ろし埋葬した。 この独身男性の一世の埋葬に立会ったのは、私たち二人だけだった。その次は角田昇道先生〈初代二世開教使〉の尊父の葬儀で、仏教会で盛大に営まれた。開教使として多くの人の葬儀に出たが、今や一世はすでになく、二世もほとんどなくなってしまった。今、私はピュゼットサウンドの海辺に住んでいるが、西方に向かって立つ仏さまの前で毎朝、なくなったパイオニアのおまいりをしている。 50 年ほど前の私の夢は、「一世ホームの建築」だった。年老いた一世に言葉の不自由のない養老院をいつか必ず作りたいと思っていた。時は流れても資金がなく、この夢は崩れだした。ファーラー仏教会在任中ころから一世資料館を作りたいと真剣に思い、適当な土地はないか探したこともあった。 1976 年サリナス仏教会へ転任して間もなく、建国 200 年 Bicentennial 記念に、大下フランク〈仏教会々長〉、岩本三郎〈資料館理事〉、白附シッド〈会計〉など会員各位の支援で仏青年会館の二階に、全米最初の日系人資料館「一世パイオニア資料館」の開館となった。三木首相、ブラウン加州知事、フォード大統領から祝辞ももらった。1992 年ロスアンゼルスに、全米日系人博物館の開館の際には私のコレクションも貸し出した。サリナスでは、西本願寺大谷光照前門主や作家の司馬遼太郎氏も来館された。 日系人の歴史に興味があるので、赴任したカリフォルニア、オレゴン、ワシントンの寺々でメンバーや先輩開教使から大小の品々をいただいた。最初にサンタバーバラでもらった日本語レコード〈蓄音機用〉や収容所の新聞は今でも持っている。所蔵資料は日系人が所持、使用したものが多いが、本屋、骨董店や競売、京都の東寺や北野神社の露天市などで求めた日系人に関する資料も多い。 1999 年に BCA 引退し、メキシコ赴任から 2004 年に帰り、ワシントン州ハンスビルに資料を全部展示した。 2006 年夏から国立歴史民族博物館の先生方と係員が日本から四名来館して、毎年夏に三年がかりで資料約 800 点(全体の1割)を検索して記録作成と写真撮影をされた。 2010 年 3月、国立歴史民族博物館は、一年間の特別展示「アメリカに渡った日本人と戦争の時代」を開催するに際して、収容所の作品、種々の書類、写真、新聞書籍などを借用された。妻と私は、開幕に際して特別招待を受けた。この度の展示は第二次大戦とその前後の限られた時代を主題であり、当館からの出品資料数は多くはないが、このような晴れの舞台で、初めて日系人の紹介の場を与えられた事は光栄の至りである。 私の母方の祖父母は日本から来た一世である。祖母は 1905 年に写真結婚で 19 歳の時シアトルの南、ホワイトリバーバレーの町オーバンに来たが、日本人女性は彼女ただ一人だった。ヨコハマを出る前に、京都の本山で「おかみそり」を受けて法名をもらっている。祖母の渡米前後の手記は、この度の展示に際してタブロイド印刷されて、特別に展示されている。 ヨーロッパ移民と異なり、一世が日本から出稼ぎ移民として渡米して以来、西本願寺は一世やその家族のために開教使を送って宗教面の支援を続けてきた。第二次世界大戦中、収容所で礼拝聖典が不足して時は、印画紙を切り、ミメオグラフ印刷機を回してガリ版聖典を作った。一世とその家族は、仏教徒が圧倒的に多かったので、米国仏教団( BCA )は 1920 年代、 1930 年代、 1950 年代、 1960 年代は隆盛を極めて、大会や特別行事の記念写真を見ると、その出席者の多い事に驚く。大戦後、日系人は日本に帰るのではなくて、アメリカを永住の地と定めて次の世代のために基礎を築こうと努めた。一世や二世に関する品目を手にとる時、これらのパイオニアに対する賞賛と感謝の思いが湧き上がってくる。願わくば、次の日系世代が文化、宗教の両面で受け継いだかけがえのない伝統を生かして、豊かな人生を送ってほしい。 合掌 Issei Pioneer Museum |
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注 |
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一世パイオニア資料館 - isseipioneermuseum.com - 2011
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