Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - その他関係
38 - 私の信仰 - 米国仏教放送 (2) - 竹村義明

私の信仰 (2) - 竹村義明

私 の 信 仰   米国仏教放送 百話

第二十六話      四 種 の 馬

阿含経(あごんきょう)にはいろいろの物語がたくさん入っていて、内容に変化が多く大人にも子供にも興味あるお経ですが、その中に良馬のたとえという物語が入っています。これは勿論お釈迦さまが言われた話です。それには、馬に次の四種類があるといっています。第一は、鞭(むち)の音を聞いて、すぐに駆け出す馬、第二は、鞭が毛先に触れて駆け出す馬、第三は、鞭で体をたたかれて駆け出す馬、第四は、鞭で体をたたかれ、たたかれてやっと駆け出す馬です。

これと同じく、人にも四種類の人がいるといっています。第一は村の人々の老病死を聞いて、ただちに自覚する人、第二は村の人々の老病死を聞くだけでは驚かないが、これを見るとき自覚する人、第三は村の人々の老病死を見るだけでは驚かないが、自分の家族や父母や親戚の老病死を見て自覚する人、第四は村人や親戚、家族の老病死に会っても、まだ他人事のようにしているが、今度は自分が実際に老病死に直面してようやく自覚する人です。

いつもの事ながら、お釈迦さまの教化のうまさに頭が下がります。私たちは果たしてどの馬、どの人でしょうか。他人の老病死を聞いただけではピンと来ず、自分とは関係なしと思う人が多いのが事実でしょう。みんな無常の世界に住  んでいて、年をとり、何時病気になるやら、不幸になるやら、いつ親兄弟子供と別れなければならないかも分からないのに、自分だけにはこんな事はやって来ないと考えています。第四の馬のように鞭でしりをたたかれ、又たたかれて動き出すのではなく、また第四の人のように、自分が年をとって病気になって、あるいは死にそうになって初めて気がつくようではだめであり、第一の馬のごとく鞭の音を聞くだけで動き、第一の人の如く村人の老病死を聞いてわが身を振り返る人になりなさいと、この話は教えています。四門出遊の物語にあるように、釈尊は門前で腰の曲がった老人を、又次の日、門前で苦しむ病人を、又次の日には門前で老人のお葬式を、次の日には 門前で出家を見て、どうかしてこの世に幸せを、どうかしてみんなを幸福にと誓われた方です。老年や病気や死は考えてみるだけでもいやだから考えもしないというのではなく、「備えあれば憂いなし」の諺の如く、しっかいとした心構えを持つことが必要だと思います。

宗教は仏さまと私の二人の間の問題であり、この物語も仏さまが私に話していて下さるんだと思い、今晩は真剣に考えていただきたいと思います。そして老病死は他人事ではなくて自分自身の問題として考える時、反省と共に年老いた人、又は家族を失った人への同情も湧いてきます。お互いに固い信仰と確かな人生観を持ち、それと同時に他の人々への深い思いやりの心を持つ事が私たちのするべきことです。


第二十七話    花 祭

     今もなほ み仏は笑む 花御堂
     子供たち 顔ほころばす 花祭
     ああうれし 今日はみ親の 誕生日
     春八日 桜花咲く 花祭
     あな尊と 救いのみ親 生(あ)れましぬ
     甘茶かけ 今日はうれしい 仏の子
     仏教徒 今日のよろこび 何にたとえん
     お釈迦さま 花でうづまる 花祭
     弥陀仏の 尊き救い 伝えんと 釈迦牟尼仏は ああ生れましぬ
     救い主 右手を高く さし上げて 天上天下 唯我独尊
     ありがとう 南無阿弥陀仏 十億の 心は一つ 慈悲の教えに

     花御堂 きれいな花で かざられる み仏笑みて われに呼びかく
     十億の 救いのみ親は 美しき 花咲き乱る ルンビニーの園に
     限りなき 悩む衆生を 導きし 二千五百年の 尊き歴史
     わが力 限りはあれど 伝えなん この喜びを 北米の地に

これは私が花祭りを祝って作った歌です。四月八日は大聖釈尊がお生まれになった佳き日です。結婚久しき間、子供のなかった父スドダナ国王と母マヤ王妃の喜びは如何ばかりであったかと想像されます。世継ぎの王子が生まれたのです。この時、ルンビニーの花園はきれいな花が咲き乱れ、まことに釈尊の誕生を迎えるにふさわしい美しさを示していました。出産を間近かにひかえて母のマヤ妃が自分の親元に帰る途中、ふとこのルンビニー園に休憩に立寄られ、そこで釈尊が産まれたというのも深き因縁を示しているように思えます。花祭という名は、桜の花咲く四月に行われるというだけではなく、元にさかのぼれば、この百華爛漫のルンビニー園と直接の関係があります。

人間が達し得る最高の人格を持った仏陀に、生きながらにしてなった釈尊は、生まれながらにして普通の人とは違ったところがあったようです。この世で、他の人の幸せを何よりも心にかける人があるとするならば、釈尊はこの一番に浮かんでくる名です。慈悲深く、常に他人の悩みを我が悩みとして同情深かった釈尊には、数々の心温まる逸話が残っています。ある春の日のことでした。年若き少年釈尊がお城の庭で遊んでいた時のことです。ヒマラヤに向かって飛びゆく鳩の中の一羽が、羽を矢で射抜かれて赤く血に染まって落ちてきました。これを見た少年釈尊は、走り寄りうずくまってひざに優しく抱き、矢を抜いて薬をつけ t 介抱し、更にその矢を自分の胸につきさして、鳩と痛みを共にされました。あまりの痛みに驚いて、涙とともにその鳩を自分の胸にひしと抱きしめて、同情の思いを示されたといわれています。やがては仏教の開祖となられた釈尊の慈悲の芽生えは、すでにもうこの時にみられます。

釈尊が十五歳になられた時のことです。父スドダナ王につれられて、春の農耕祭を見に春の野に出かけられました。「花は咲き匂い、若葉は萌え、草は緑、遠くからは婚礼の祝いの太鼓が聞こえ」まことにのどかな春の日でした。牛は元気よく鋤を引き、耕す人も種まく人も、秋の収穫を期待して、朗らかにせっせと働いていました。何の憂いも悲しみもなきこの世の春の風景をみて、釈尊は心から喜びましたが、しかし、やがてその喜びは悲しみへと変わっていきました。美しきバラの花かげにひそむとげを見られたのです。わずかばかりのお金のために日に焼けて真っ黒くなり汗みどろで働く農夫、腹にむちを当てられて苦しそうに働く牛たち、今まであんなにのどかに見えた春の風景が急に違って見え出しました。よく見れば、とかげは蟻を取って食べ、蛇はとかげを殺し、とんびは更にこの二つをねらっている。鳥は蝶々を追っている。楽しかるべき春の野も、裏には苦しみ多く争いの絶えない弱肉強食の姿がひそんでいることを知り、少年釈迦は深い思いに沈まれたと伝えています。釈尊は書く、慈悲深き人でした。

一見何事もなく平和に見える世の中も、やはり争いがあり、生老病死の苦しみがあります。釈尊はまがれること多き世の人々に正しき道を教え、悩み苦しみの多きこの世の人々のために苦しみなき世界を教えられた人です。四月八日は悩み悲しみ多き私たちに、仏教の教えを説いて下さった釈尊のお誕生日です。心からお祝い致しましょう。


第二十八話    一 隅 を 照 す 人

日本仏教史上ばかりでなく、日本歴史の上からもまことに傑出した人物であった天台宗の開祖、伝教大師(でんぎょうだいし)のお話を今晩はさせていただきます。最澄(さいちょう)というのが本名ですが、普通は清和天皇が彼の功績をたたえて贈った名前、すなわち伝教大師として広く知られています。天皇から大師号を受けたのは、この最澄が一番な初めだということからも、彼がいかに偉大な人物であったかがうかがわれます。

最澄は今から約千二百年前に今の滋賀県に生まれましたが、年わずか五十五歳で亡くなりました。しかし、人の偉さは寿命の長さでは決めることができません。早く亡くなったとはいえ、最澄はやがては天台宗の開祖となり、その教えは今も生き生きとして私たちを教え導いてくれます。天台宗は大きな宗旨ではありませんし、このアメリカ本土には天台宗のお寺はできていません。しかしながら、天台宗は伝教大師あるが故に、今も忘れられることなく伝わっています。伝教大師は亡くなっても、その人の教えは不滅です。

最澄は当時の日本の最高の知識人であり、彼はその一生を若人の教育に捧げました。京都と滋賀の境の比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)を建てましたが、この延暦寺こそ、当時の日本の唯一つの最高の学問の道場であり、今日なら大学と呼ばれるべきものです。仏教だけを教えるのでなくて、広い分野に亘っての教育が行われました。「国宝とは一隅を照らす者なり」との有名な言葉を残し、国の繁栄はただ、この一隅(いちぐう)を照らす人によってなされると信じたのでした。国の宝は一隅を照らす者なりの言葉に惹かれた青年は、日本国中からこの比叡山めざして集まり、一時は千七百人もの 学生があったと記録されています。これら若人は、国宝は博物館や美術館の中にあるのではなく、良き行いの中にあると信じたのでした。

伝教大師は亡くなっても、伝教大師の精神は比叡の山と共に生き続けました。伝教大師が亡くなって四百年ほど経った鎌倉時代に、五人の高僧が出て日本人の精神生活に大革命をもたらしました。他でもなく、法然上人、親鸞聖人、英西禅師、道元禅師および日蓮上人です。この五人は皆共に、この伝教大師の開いた比叡山で学んだひとばかりです。やがて比叡山を出た法然は浄土宗、親鸞は浄土真宗、栄西は臨済宗、道元は曹洞宗、日蓮は日蓮宗を開き、それぞれの宗旨の開祖となりました。これらの人々により、仏教は日本人の間にしみ通り、仏教国と云われるようになりました。

一隅を照らすとはどういうことでしょうか。自分の住む小さなまわりに光を与えることです。限られた力を持ち、大きなことはできません。せめて、ほんの一隅に光を与える事こそが伝教大師の教えであり、仏教の教えです。大きなことは言いますまい。まず自分の住む我が家に、そしてお友達に光を与える人になりたいものです。光の代わりに害を与えていないかと、お互いに反省しましょう。各自が事故の最善をつくし、一隅を照らす人になることが国の宝であり、国の繁栄です。一隅を照らす人になるよう努力しましょう。


第二十九話    年 末 に 想 う

とうとう今年の終わりが近づいてきました。もうあと六時間すれば、新しい年、一九六二年です。「蛍の光」を歌って、思い出深い一九六一年にお別れしなければなりません。別れることはいつも淋しい気持ちにさせますが、今晩で今年も終わりかと思うとやはりしんみりした心地がします。

日本にいたら、この大晦日の夜は百八つの除夜の鐘が去り行く年を惜しむかのように、寺々から鳴り渡ります。大晦日の夜の静けさを破って聞こえてくる除夜の鐘を、こたつに当たりながら聞いた昔の事を懐かしく思い浮かべます。除夜の鐘は百八つの煩悩を除き、清き心で新年を迎えようとするためだといわれていますが、ゴーン、ゴーンと余韻をもって鳴り響く鐘の音は、私たちに何かを語らんとしているかのようです。ある時は諸悪莫作、諸行無常(悪きことをせず、善きことをせよ)といういましめと励ましに聞こえ、またある時は盛者必滅、会者定離(盛んなる者は必ず滅び、会う者はみな別れねばならぬ)という諦めと慰めに聞こえます。又時には、今年もお蔭で無事に一年を過ごさしていただきましたという感謝の鐘にも聞こえます。

鐘の音は、仏の声だと昔の人は言いました。鐘の音を聞く時は、仏の声、ほとけの説法と思って合掌したのでした。お釈迦さまは悲しむ人には慰めを、悩む人には安心を、心曲がれる人には正しき道を、幸せな人には感謝の道を教えられました。釈尊が亡くなられてからすでに二千五百年になりますが、私たちはこの鐘の響きを通して釈迦如来の精神にふれることができるのです。釈尊の肉体はなくなりましたが、釈尊の精神は今なお私たちと共にあります。

愛央仏教会には日本のお寺のように大きな鐘はありません。今晩は除夜会礼拝の後、参詣の方々に半鐘をついていただきます。鐘は小さくても真心込めてつくときには、鐘の大小は問題ではありません。又たとえお参りできない人も、心の中で鐘をついてください。私たちはすべて仏さまの教えによりつながっています。今晩鐘をつく時、あるいは除夜の鐘のこを想う時、仏さまのお慈悲を想い、今年も無事に過ごさしていただいた我が身の幸せを感謝しましょう。

一夜明ければ新しい年一九六二年です。悲喜こもごものこの一年も、遂に残り少なくなりました。長かったようで短かかったこの一年を静かに振り返れば、次から次へと数かザの出来事が心に浮かんできます。明るい楽しいこともあったし、暗い悲しいこともありました。過ぎ去ってみれば、すべてなつかしい想い出ばかりです。悲しみ、淋しさ、つらさ或いはくやしさのために泣けてくる人もあるでしょう。この一年、人に心配と世話ばかりかけた人もあるでしょう。でも、今日はこの一年の終わりの日です。涙を見せるのも、人に迷惑をかけるのも今晩限りにして、明日からは新しい気持で新年を迎えましょう。今年は割合、人の面倒も見たし、人にも親切だったといえる人は、来年は今年以上に、人の世話をし、親切にしてください。明日からは新しい年が始まります。私たちの心も新しく入れ替えて、改めるべきは改め、伸ばすべきはますます伸ばし、めでたき新春を迎えましょう。


第三十話    靴 屋 で 服

スペインといえば、すぐに闘牛、ブルファイトを思う人が多いでしょう。てに赤い布と剣を持った闘牛士と、それをめがけておどりかかる闘牛の死に物狂いの争いは、情熱の国スペインの名物です。

さて、これに出てくる牛、すなわち闘牛はどのように育てられるのでしょうか。生まれる とすぐ野に放たれて、大きくなるまで人を見ないように育てて、荒い気性を持つ牛に擦るのです。いよいいよ、この人に慣れない闘牛が慣習のつめかけた競技場に引き出されると人々の歓声におどろき、剣士に立ち向かい最後に剣で突かれて倒れるまであばれまくります。かわいそうな動物です。

闘牛は暴れるほど値打ちが出る訳ですが、私たちは人と離れて生きていけないし、又人の前に立つとき、あばれてはなりません。平和に仲良く生きることを学ばねばなりません。では、人に会わないでは生きられないこの世の中では、どのように生きるべきでしょうか。

生身を持った私たち人間は、四百四病といわれる通り、数々の病気をします。病気をした人は良く知っているように、病気ほどつらいものはこの世にありません。仏教で言う病気は、普通世間で言う病気とはちがいますが、私たちに害を与えることには変わりがありません。仏教では、貪欲(貪欲)、慎恚(心に)、愚痴(ぐち)の三つを三毒(さんどく)の煩悩(ぼんのう) . といい、これが心を汚す病気です。

この三毒の煩悩は、普通の病気とどこがちがうのでしょうか。世間で言う病気、、、たとえばおなかが痛いとか、心臓がわるいとか、手足の自由がきかぬとか、頭が痛いとか、気分が悪いとか言う病会は、まず誰よりも先に自分が苦しみます。そして、やがて人に心配をかけたり世話をかけるようになります。これに反して、三毒の煩悩、、、すなわち欲深、いかり、不平はまず人に迷惑をかけ、やがてそのむくいが返ってきて、初めて自分の心の汚さに気がつきます。しかし、二つはともに病気であり、この苦しみは一日も早くなくせねばなりません。

本屋に行って野菜は買えません。靴屋に言っても服は売っていません。本はやはり本屋さんに行かねばなりませんし、靴が欲しければ靴屋さんに行くのが一番です。体の具合がわるい病気の時は、病院やお医者さんの所に行って診ていただくのが大切ですし、欲深や腹立ちや不平の病いには、仏教の信仰をもつ事が大切です。しかし、世間には行き場所を間違えて、本屋へ野菜を買いに行くような間違いをする人が多いようです。三毒の煩悩をおさえることが仏教の使命であり、仏教は手足の痛みや心臓の調子のわるいいことや、けがや神経痛までなおすことはできません。病気の種類によっては、心の持ち方により病気になったりなおったりすることはたしかですが、しかし、どんな病気でもぶっきょうによりなおそうと思う人があるならば、それは方向ちがいです。それは丁度本屋で野菜をさがすようなものです。体の病気は、やはりお医者さんに診ていただかねばなりません。何年も学校に行き、研究と経験を積んだお医者さんを信頼して手当てを受けることが必要です。

「おぼれる者はワラでもつかむ」のことわざの通り、病気の苦しさのためにただ仏様に祈願してなおそうとする人がありますが、これはまちがいです。仏さまへの信仰により「なおりたい」というつよい希望をもつことは病気の快復のために良い事ですが、医学治療のことを忘れてはなりません。手おくれになってはいけません。すぐにお医者さんに診てもらうことが必要です。そして、心の病気の時には仏教です。スペインの闘牛のように人を離れては生きられない私たちに仏教はとても大事なものです。病気の時お医者さんに行くように、自分の心のまがった時には仏教を求めたいものです。


第三十一話    不 死 の 願 い

世界史に於ける古代文明は、ナイル河流域に発生したエジプト文明、イラクのチグリス、ユーフラテス両河流域のバビロニア文明、ガンジス、インダス両河流域のインド文明、黄河、揚子江流域の支那文明の四つですが、この内で、世界最古の文明はエジプト文明だといわれています。この文化は紀元前三千年、今から約五千年も昔に栄えたにもかかわらず、有名な人間の顔をした獅子(しし)の像スフィンクスやピラミッドなどで、今も往時の隆盛を思い出させます。

ピラミッドとは歴代のエジプト王のお墓であり、霊魂の不滅を信じたエジプト人は、エジプト王が死ぬと、大きなピラミッドを次々に作り、現在残っているものは七十あまりあるといわれています。中でも。クフ王のピラミッドは高さ五百フィート(百七十米)底辺の広さは十三エーカー(五十町歩)もあり十万人の奴隷が二十年かかって作ったといわれています。しかも、これらの奴隷は、強制されていやいや仕事をしたのではなくて、ピラミッド作りに奉仕することにより自分も同じように亡びない命、不滅の霊魂を得られるとしんじてよろこんで働いたのでした。それ故にそ、あのようなおおきなものが、五千年も昔にせきたのでしょう。亡びない命欲しさのために奴隷たちは激しい肉体労働にも耐え忍んだのでした。私はこのピラミッドと奴隷のことを考える時、人間の不死の願いの如何に強いかものかに驚かされます。永世の願いは、エジプトだけでなくそのまた昔、人間がこの地上に出た時から、人間には切り離す事のできないものだったようです。世界には今多くの宗教があり、それらの説く天国とか極楽とかは、すべて人間のこの要求を満足させてくれるものです。

さて、浄土真宗ではこの救いをどのように教えているでしょうか。浄土真宗では、すべての人は一人残らず仏の救いにより仏の浄土に生まれるという絶対他力の救いを説いています。人間の切なる願いを聞きとどけて下さるのが仏さまであり、お浄土に生まれたい私たちの気持をふみにじるようなことをされる筈がありません。煩悩深き身だりながら、有難いことです。救われる見込みのない者がすくわれるのは、ただごとではありません。しかし、この救われる見込みのない者を救って下さる仏さまのことを思う時、喜びはひとしおです。

口で話すこと、手足で行うこと、心で思うことが良いならば、浄土に生まれるのはまちがいなしでしょうが、全く地獄に行くべきはずの者が救われると聞く時、ただ感謝あるのみです。この感謝の気持は、人から教えてもらったりするものではなく、自分で感じ取るものです。せんごくじだいの武将熊谷直実(くまがいなおざね)が、極楽往生の道を法然上人からきき、ただ念仏すればよいと聞いた時、戦さの野では涙を見せぬこの人が、涙を流してよろこんだと伝えられていますが、仏の救いを始めて聞いたこの人は、余程うれしかったのでしょう。

心の汚い意私たちは、仏の前には悪人です。しかし、悪人正機(あくにんしょうき)の教えで、悪人でも救って下さる仏さまの慈悲にめざめ。悪人が少しずつ変わっていくのが浄土真宗の信者の生活です。この世の命に限りある人間の最大の願いである仏の国での不滅の命をいただける幸せを感謝し、その感謝の心から「世のため人のため」にできる限り力を尽くしましょう。


第三十二話    故 人 の 追 悼

メモリアル デーがやってきます。毎年五月三十日は亡くなった人を追悼するひであり、みんなお墓のお参りして記念しています。アメリカ南部で始まったこのメモリアルデーは、今年で百九十五回を迎えます。初めは南北戦争で戦死した兵士を祭ったこの行事は、今では戦死者だけではなく、すべての亡くなった人を追憶するアメリカの国民的行事となっています。日本のお盆のようなものです。皆さんも、このメモリアルデーには、お花を持ってお墓におまいりされることとおもいます。

仏教では、特に先亡者の追悼を重くみて、人は亡くなってもいつまでも故人の徳をしのぶ事を教えます。たしかに年忌とか法事が、仏教徒の家庭ではよく行われます。「だから、仏教は陰気で湿りっぽい」という人もあります。しかし、愛するわが子をなくした人にとって、育てて下さったご恩のある親をなくした人にとって、又は大切な夫や妻、兄弟友達をなくした人にとって、それは当然のことであり、うるわしい愛情の表れだと思います。十年たっても、二十年たっても、故人の法事をされる人を見る時、私は湿りっぽいとか陰気だというのは間違っている気持がします。

「信仰心なき人は禽獣(禽獣)に等し。」といわれています。信仰を持ち、故人に心からの追悼の意を捧げることができる時、動物やけだものと違って、人間としての価値が出てくるのでしょう。浄土真宗において、追悼法要は追善供養のためではなく、故人から受けし御恩と仏の慈悲に感謝し、同時にわが身を振り返り、命ある身の幸せを知る事だといわれています。こう考えると、故人の追悼は仏教徒としてなすべきことであり、陰気なことではなく、むしろ仏教の誇りとすべきことです。

人は悲しみを通じて人生の実相を知り、その悲しみは人生をより豊かなものにしてくれます。悲しみは人生に深さを与えてくれるといってもよいでしょう。悲しみを経験しないうちは、まだ人生の深さを知らない人といってもよいでしょう。人生に悲しみは、喜びと同様に付き物だからです。自分が悲しい目に会う時、他人の悲しみも分かり、同情とともに真の友情や愛情が湧いてきます。同病相憐れむのことわざは、このことを言ったものでしょう。メモリアルデーを三日後にひかえ、皆さんは思い出も新たに、故人を追憶されることと思います。真心に勝る宝はありません。メモリアルデーはその真心を使う日です。


第三十三話    絶 対 の 救 い

生活水準が高くなり、衣食住も日々に改善され、医学が進歩して病院設備がよくなり、新薬が発見され、医師の技術が進んだとはいえ、やはり人は死の運命からのがれることはできないようです。御文章の「いまだ万歳の人身をうけたりということを聞かず」のことばは、変わらざる真理です。

人は誰も生を喜び、死をきらうのが常です。しかしながら、この世にひとたび生を受けた者は、必ず滅びゆく身であり、死もまた生と同じく人生の厳しい一面です。これに顔を背ける人は、人生のこの厳粛な事実に目かくしをして人生に背を向ける人であり、正しい態度だとは云えません。しかも、この人生無常の風は、時と所を問わず、また男女、職業、年齢の区別なく吹いてくるものであり、私たちはこれを他人事にしないで真剣に考える必要があります。

道端に座って、道行く人に物乞いをしている老人に、「どんな人がよく物をくれますか」と聞いた時、その答えは「お金持ちらしい人にいくら頭を下げても、一銭もくれずに通り過ぎていく事もあるしこんな人がと思うような人が恵んでくださることもあります。服装や外見ではわかりません。期待するとあてがはずれて失望しますが、立ち止まって差し出して下さる人だけは、絶対まちがいありません。」でした。頼んだり、お願いしたりすると、物やお金をもらえないとき失望するが、頼みもしないのに向こうから恵んで下さる時はたしかにもらえるし、これほどうれしいことはないというこの老人の言葉は、なかなか意味深長です。

阿弥陀如来は、私たちがどうぞお助けくださいとたのまなくても、無効からすでに「必ず助ける」と温かい救いの手を差し伸べていて下さいます。煩悩強く罪悪深重の私たちが、救いを得るために修行を積むのならば、不完全な私たちのこととて、到底、救済の見込みはないでしょうが、慈悲深き仏様の回向して下さる救いですから絶対安心です。仏さまの慈悲の光の前には、罪深き私たちとても、日の光が闇を打ち破る如く、心の悩みは救いのよろこびに変えられます。讃仏歌「み仏に抱かれて」は、愛別離苦になき悲しむ私たちではあるが、仏様の絶対のお救い故、親や兄弟に別れるることがあろうとも、そこに慰めと安らかさを見出すことができる喜びを歌っています。常に大きなみ仏の救いのなかにいだかれている自分であるという、強い信仰に生きたいと思います。

   一 み仏に抱かれて 君ゆきぬ 西の岸
      なつかしき 面影も 消えはてし 悲しさよ
   二、 み仏に抱かれて 君ゆきぬ 花の里
      つきせざる 楽しみに 笑みたもう うれしさよ


第三十四話   幸 せ は ど こ に

すべての人は、幸福を求めています。ギャロップ世論調査は、二万四千人余りの調査員を動員して、今、世界の二十三カ国に於いて、「幸福とは何か」について意見をきいています。今までの調査の結果によると、アメリカに於いては、七十パーセントの人たちが「もしも収入がもう三分の一ふえたら幸せだ」と答えています。十人中七人まで、お金こそ幸せをもたらすものだと答えているのです。

三週間前に、オレゴニアン新聞紙上に「百万長者になる時」というタイトルで興味深い記事がでていました。これは、西部でも最も含有量の大きいウラニウム鉱山を見つけて一躍百万長者となった人の話です。「いぜん、中流程度の生活をしていた時、もう少しお金があれば、この世で悩むことはひとつもないと思っていました。しかし実際にお金が入ってきて金持ちになった時、今までには想像もしなかった悩みが出てきました。お金ははいりましたが、悩みはなくならず、ただ他の悩みと変わっただけでした。お金が欲しい人にあげないだけで、もう敵ができてしまいます。」と、この人は言っています。いままでに、すでに五十万人の人が、この人のお金について話を持ち込んだそうです。その妻は「百万長者と世間は言いますが、じぶんはまだ百万長者の気がしません。じっさいのところ、ユタ州のハンクビルでトレイラーの中で貧しく生活していたときの方が幸せだったような気がします」と言っています。

お金は、この人達を幸せにはしませんでした。大無量寿経に田がなければないと思って憂い、田があればあるとて憂い、家がなければ憂い、家があればあるとて憂うと言う言葉がありますが、考えてみるべき言葉です。アメリカの心理学者が世界三十六カ国の小学六年生を対象にした研究によると、アメリカの少年少女たちが他のどの国よりも多くの不平不満を持っていた結果が出ています。富と幸福は比例しないようです。

法句経とは、原語のサンスクリット語でダーマパーダといい、真理の言葉という意味ですが、釈尊はこのお経の一番最初に、「想いはすべてに先立ち、すべては想いよりなる」と言い、またリンカーンは、「大抵の人は自分が幸せになろうと思う程度に幸せである」と言っています。富、地位、権力、職業が我々の幸せや不幸をきめるのではなく、行いの根底となる心がきめるのです。心の幸せなくして真の幸せはやってきません。仏教は心の幸せを教える勝れた教えをもっています。頭を低くし、教えの門をたたこうではありませんか。


第三十五話     お 盆

私たち仏教徒にとって、夏の行事として切っても切ることのできないお盆の季節がやってきました。七月十五日から八月十五日の間に行われる、日本の夏の風物詩の一つです。

このお盆は、今から約二千五百年も前に、インドで目蓮尊者が餓鬼道に沈んでいた自分の母が、仏の浄土に生まれたことをよろこんで、喜びにあふれて、おどりあがったと伝わっている話から始まったものです。お盆とお盆踊りには、このような歴史があるのです。

今ごろ日本では、町でも村でも、老いも若きもユカタを着てウチワを手にして、盆踊りを踊っていることでしょう。日本人にとって、又日本の夏にとって、このお盆はんsくてはならないものです。毎年この時期になると、私は日本で母や姉と田んぼ道を通って、お花、線香、お供え物、お水などを持って、お盆のお墓まいりに行ったことをなつかしく想いだします。

お盆は、その元をたずねれば、目蓮が自分の亡き母を想ったことに始まっていて、やはり一種の追悼法要ですが、私たちはこのお盆法要とほかの追悼法要の間に、大きなちがいのあることに気がつきます。同じように亡くなった人を追憶する法要なのに、追悼法要といえば重々しい気分になり、お盆ときけば、何だかにぎやかな、うきうきした気分になります。それは、一体何故でしょうか。

このお盆法要の特徴は、目蓮はは葉を失って悲しいが。その悲しみよりも仏の救いに対する感謝と喜びの方がもっと大きいということでしょう。なき悲しむお参りではなくて、仏さまのお慈悲によろこびあふれるお参りであることが、他の法要と大きく違う点です。この一年間に、夫や妻、子供や父母に死別して初盆を迎えるご家庭も数多いことでしょう。目蓮が母の救済を聞いて、仏の慈悲に感謝した如く、私たちも、お盆を迎えるに当たり、今は亡きご先祖の方々へ感謝すると共に、阿弥陀仏のお救いにも感謝しなければなりません。

亡くなった人ばかりでなく、現に生きている私たちもまた、仏の救いの仲に既に入れていただいていると教えられています。仏の慈悲は、幸せな時も、悲しい時も、仕事をする時も、眠りにつく時も、いつも私たちの上に及んでいると聞いています。そして、私たちの命が終わる時は、必ず仏の浄土に生まれて永遠の命をいただくのです。命に限りある人間に生まれてきて私たちが、尽きない永遠の生命を恵まれるという事は、何と言う喜びでしょうか。目蓮が跳びあがって喜んだ気持が分かります。今年のお盆は、目連の喜びをわが喜びとして迎えたいものです。


第三十六話   小 さ い 戦 争

「正語」(しょうご)は、私たち仏教徒が従うべき八正道(八正道)の第三番目の教えです。今晩、この良く知られた題を選んだ理由は、この正語が仏教教義の中で非常に重要な位置を占めているにもかかわらず、日常生活に於いて余り実行されていないからです。経典に「正語」とは「無益な言葉や人を害する言葉を避け、みんん S に親切に丁寧に話すこと」と書かれています。

「ささやき」(Whisper)という子供の遊びを知っておられるでしょう。一人の子供が横に座っている子に何かをささやくと、その子はまた横の子に聞いた事をささやき、同じように次々と耳打ちをしていくゲームです。そして、一番端にいる子度まで話が伝わった時、大きな声でこの子供は、聞いたことをみんなに発表します。この最後の子供は、どんなことを聞いたでしょうか。一番初めの話とは大いにかけ離れたり、全然ちがったりすることがしばしばです。子供から子供へと伝わる時、話は少しづつちがってきて、枝に枝が出て伝わっていきます。実際これはとても面白いゲームで、子供たちはとてもエンジョイしています。

このゲームは、ゲームとして遊んでいる時には誰にも傷がつきません。しかし、これがひとたび子供の遊び部屋の外で遊ばれる時には、個人や社会に対して想像もつかないほどの影響がります。では、遊び部屋の外の「ささやき」ゲームとは何でしょうか。それはゴシップ、うわさです。毎日私たちは数多くの噂を聞きます。多くの場合、話は大袈裟に誇張されたり、真実でなかったり、また時には汚い利己心によって曲げられています。ある人に対して悪意を持つ人が起こすうわさは、特に害があります。これは、もはやゲームではなく、個人と個人の小さな戦争です。

他の人を傷つける人は、自分を傷つける人です。もしあなたが他の人のうわさをするならば、貴女はあなたの仏性と良心を傷つけています。善因善果、悪因悪果は仏教徒の信条です。サンデースクールの聖典の第一ページにあるゴールデンチェイン(金の鎖)を知っている方も多いでしょう。誓いの言葉です。それは、「私は世界を取り巻く仏陀の金の鎖の一つの環(わ)です。私は私の環を立派に、しっかり守ります。私はすべての生きとし生ける物に対して親切にやさしくし、私より弱いものを保護するようつとめます。私は私の幸福と不幸が、今私がする事によることを知り、清く美しき想いを抱き、清く美しき言葉を語り、清く美しき行いをするようつとめます。願わくば、仏陀の愛の金の鎖のすべての環が立派にしっかりと結ばれ、すべての人が心に完全な平和を得られますように 。」(ゴールデン・チェイン私訳) です。

傷つけず、慈悲深くというのが仏のおしえです。明日からではなく、今日からこの「正語」を日常生活の中で実行しようではありませんか。人をののしったり傷つけたりするためにではなく、人を助け、勇気づけるために言葉を使いましょう。仏陀の愛の鎖が立派にしっかり結ばれ、すべての日地がかんぜんなる平和を得るように、ただ善意と真実ある言葉を話しましょう。


第三十七話  悩 み 多 き 人 の た め に

先週、放送局から帰ってきたとき、母が「義明、放送できるのは、仏教のお蔭よ。あなたが偉いのではないのよ。もしも開教使出なかったら、いくら同思っても放送なんかできないのに」と申しました。まったくその通りです。こうしてマイクの前に立てるのは、私の力ではなくて、仏教の力のお蔭だと感謝しています。

その仏教の教えとは、一体どんなものでしょうか。開祖釈尊は、その中心教義として四諦(したい)を教えました。諦とは、今の言葉では真理という意味です。四諦途は苦諦、集諦、滅諦、道諦です。すなわち、苦しみについての真理、苦しみの原因についての真理、苦しみの終滅についての真理、苦しみの終滅の方法についての真理の四つです。

時と処は変わっても、真理は不滅です。二千五百年前に釈尊が説いたこの四諦は、二十世紀の今日も少しも変わることなく、私たちを導く指導原理です。私たちは多くの苦しみを持っています。釈尊が言われたように、この世には生老病死(しょうろうびょうし)、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとっく)などの苦しみがあります。人間がこの世に出てきてから幾万年、人間はこれらのくるしみに悩み続けています。釈尊の教えは、ほかでもなく、これらの悩みや苦しみや悲しみをなくする道を教えるものです。もしもこの世に悩みや苦しみがなければ、仏教の必要な理由はありませんが、実際はこの世に限りない苦しみが存在しています。だから、仏教はどうしても必要なものです。釈尊は「衆生の悩みはわが悩み、衆生の幸せはわが幸せなり」と言い、その全生涯を人々の福祉のためにおくられた人です。その八十年の一生のなかには、奴隷から国王まであらゆる人々が教化を受けました。釈尊は人に言う事を自らも実践した人でした。誠に平和と慈悲の人でした。後に、慈悲の宗教といわれる仏教の開祖になったのも、むべなるかなとうなづけます。常に不運な人、不幸な人の友となり、慰めと勇気を与えて幸せな人としたのでした。

今、農家の方たちは雨を待ち焦がれています。二千五百年前のひとたちも、雨、精神的な雨を待ち焦がれていました。そのとき、慈雨がやってきました。かわいた土に雨がしみいる如く、教えは悲しみ悩み多き人々の心に溶け込んでいきました。これは、遠い昔に起こったことですが、今日も通じる話です。釈尊の教えは、決して古くなりません。それは今もなお、私たちの心の中に生きています。釈尊は私たちの永遠の友だちです。


第三十八話   仏 教 逆 輸 出

親鸞聖人七百回大遠忌法要参拝団に加わり、何十年ぶりに日本を訪問して帰られた人たちが、口をそろえたように、「アメリカの方が仏教が盛んですね」と言われます。私も、日本とアメリカの仏教を比べてみて、前からずっとそう思っていました。この愛央仏教会に於いても、毎日曜日には日曜学校が午前十時、二世英語礼拝が午前十時四十五分、一世日本語礼拝が午後二時におこなわれ、みんなの人に礼拝していただくようになっています。この礼拝のほかに、午後三時からは仏教聖歌合唱、午後六時からは仏教放送があります。日本の人が聞いたら、本当にびっくりされるでしょう。日曜日に、五マイルから十マイルくらいドライブしてサンデースクールやその他の礼拝に来られる人は、沢山あります。。五マイルは日本の八キロ、十マイルは十六キロです。自動車という便利なものがあるからでしょうが、日本では想像もできないほどの熱心さです。

近頃良く日本への「仏教逆輸出」という言葉を聞きます。六十年前に日本からの一世移民と共にやってきた仏教が、アメリカで立派に成長して、今度は日本へ、アメリカでおとを育った「生きた仏教」を逆に送り出そうというのです。でも、アメリカの仏教が理想的仏教というのではありません。まだあらためなければならないところも、たくさんあるでしょう。花祭りかお盆にしか仏教会へ来ない人も、中にはあるでしょうし、映画やテレビを観たり、碁や将棋や詩吟をする時間はあっても、お寺へ来る時間はないという人もあるでしょう。愛央仏教会はあなたの仏教会です。他の誰のものでもなく、あなた方一人一人のものです。数多いアメリカの仏教会の中でも、本当に立派な自慢のできる仏教会です。皆さんのなかには、こうしたいとか、こうしてほしいとかというプランや希望があれば、どうぞお知らせください。共に手を取り合い、力を合わせて、より深く仏の教えを信じ、また行なっていきたいと思います。

一世の方々がアメリカへ来られて、早五十年、六十年になります。数多くの苦難辛苦がありました。悲しいことですが、もう二十年もしたら、今お元気な一世の方々も、ほとんど居られなくなる事でしょう。でも、一世各位は、たとえ肉体は亡びても、永久に亡びない宝を残して下さいました。それは仏教です。渡米当時の苦しさの中にも、精神的支柱となっていたこの仏教は、二、三世への最大の贈り物だと言えるでしょう。

若い人たちも、必ずや一世の真心こもった贈り物、仏教を、一世と同じく信仰し、良きアメリカ市民となることでしょう。今後益々、アメリカ仏教が栄えて日本への仏教逆輸出が実現し、祖国日本の「仏教のめざめ」に寄与することを夢見ています。


第三十九話    慰 め の 手 を

あなたは、ベールの養老院に居られる宮原さんを知っておられますか。あそこにいるたった一人の日本人です。広島県安芸郡出身の宮原賢次郎さんです。一昨日久しぶりに訪れた時には、娯楽室でたくさんの白人の老人達と、テレビジョンを見ておられました。八十七歳というお年にかかわらず、私をまだよく覚えていて下さり、自分のルームに来なさいとつれていって下さった。

何かとても話したい事があるように思えました。ベッドのほかには、小さな洋服ダンスと机が一つある部屋に入り、イスに腰掛けたかと思うと、宮原さんは早速しゃべりだされました。八十七歳というのに、どこにそんな元気があるのかと思いました。一時間もしゃべったでしょうか。私達は時間のたつのをわすれて話しました。宮原さんの話は、涙なくしては聞けません。私は、じっと我慢して聞きました。

宮原さんは、明治二十五年、一八九二年に歳わずか十七歳の時、渡米されました。丁度七十年前です。当時の事とて貨物船に揺られて一月もかかって、やっとアメリカに着いたそうです。私は今までに沢山の一世にお会いしましたが、在米七十年という人には会ったことがありませんでした。宮原さんは、本当にパイオニアだなあと思いました。日本人も当時は、数えるほどしかいなかったそうです。

殆んどの日本人移民がたどったように、宮原さんも鉄道働きや皿洗いにアイダホ州、ワイオミング州、オレゴン州ベーカーなどを仕事を求めて転々と移られました。信用していた日本人にだまされたこと、白人に今までに四回もひどく殴られたこと、とてもよくしてくれた白人のこと等、昔話は尽きませんでした。日本には姉がいたが、どうなったことやら、日本に帰った事は一度もないし、今更帰っても七十年も他所へ出ては誰も知った人もないしと、悲しそうな顔をして居られました。アメリカへ来て、不良仲間にも入りごろつきをしてましたと自分からおっしゃる宮原さんは、素直で優しい人だなあと感じました。耳も気もたしかですが、ただ目が弱り、小さい字は読めなくなったと言って居られました。

日本から来る時は、行李(行李)一つ持ってきて、七十年たった今、やはり洋服二、三枚と小さなかばん一つしか持っていないと言えば、今の若い人たちは首をかしげることでしょう。宮原さんは、何一つこれといった目に見える物を残しはされませんでした。しかしながら、多くの亡くなった一世パイオニアと同じく、その一生をアメリカに捧げた人だと思います。荒れ果てた荒野が耕されたのも、砂漠や広野に線路が敷かれて汽車が走るのも、そこには尊い犠牲のあることを忘れてはなりません。激しい肉体労働を、安い賃金を、日本から離れた寂しさを、幾多の迫害と排斥を、ぐっと我慢し続けたのが一世です。

宮原さんは結婚されなかったので、このアメリカには妻子も親戚もありません。今もベールの養老院に横たわりながら、一人淋しく過ぎ去った昔を振り返っておられることと思います。時間のある方は、どうぞ宮原さんに会ってください。そして慰めてあげて下さい。せめて余生を楽しく過ごされるように、友達になって元気付けて下さい。不自由な体ながら、杖をついて玄関まで、わざわざ私を送りに、目に涙を浮かべて出てこられた宮原さんの淋しそうな姿が、まぶたにちらつきます。

あなたのまわりに、宮原さんのような方は居られませんか。淋しい人、身寄りのない人に温かい同情と慰めの手を差し延べるのが、釈尊の教えられた道ではなかったでしょうか。自分さえ良ければ、他の人のことはお構いなしというのは、仏教徒の道ではありません。どうか、貴女の温かい仏性を、こんな時こそ使って下さい。淋しい人に、助けを差し延べて下さい。


第四十話   弟 子 一 人 も 持 た ず 候

貴方は座右の銘(ざゆうのめい)をお持ちですか。座右の銘たは、私たちを教え、導き、はげまし、そして何時みても感銘を与える言葉です。この間、サンフランシスコの邦字新聞社から新年号に載せるから座右の銘を知らせるよう連絡がありました。私の座右の銘は、歎異抄(歎異抄)にある「親鸞は弟子一人 (いちにん) も持たず候」ですと返事しました。「親鸞は弟子一人も持たず候」は、何回口ずさんでも、いや口ずさめば口ずさむほど、私の精神を緊張させ、私の心を和やかにしてくれる言葉です。その言葉は短いが、大好きです。私は、私の一生を通じて、この精神を自分のものとするよう努めたいとさえ考えています。

浄土真宗の改組でり、多くの弟子信者にとりかこまれながらも、 自分は弟子を一人も持っていないと言い切った親鸞聖人の人柄が私は大好きです。すべての人は上下なく、友達だあるという御同朋御同行( おんどうぼうおんどうぎょう )の浄土真宗の開祖としては当然の言葉しょうが、私たちには言えない言葉です。少しでも教育を受け、財産ができ、家柄が良いと、よほど自分が偉くなったように思い、鼻を高くしたい私たちにとっては、耳に蓋(ふた)をしたいような言葉です。良薬口ににがしと言いますが、これは特ににがい薬です。しかしながら、苦い薬も病気をなおすように、このことばも私たちの高慢の病気をなおして下さることでしょう。皆さんはどなたもお友達をお持ちでしょう。他の人にはすぐ友達が出来るのに自分にはできないという人でも、五人や六人のお友達を持っておられるでしょう。然し、あなたは「ああ、この人をお友達に持って幸せだなあ」と言えるお友達をお持ちですか。できてもすぐなくなるような友達ではだめです。大切なのは友達の数ではありません。

一生を通じて、互いに信じ合い、頼りになる友だちこそ本当の友だちです。不幸な目に会ったり、逆境に陥った時に背中を向けて逃げていくのでなく、こんな時こそ助けに駆けつけるのが本当の友情です。本当のフレンドシップです。こんな美しい友情をあなたは持ちたいとおもいませんか。持ちつ持たれつ、助け助けられつつ、いついつまでも変わらじと誓う友情は、そばで見る人の心さえ、温かくしてくれます。親戚や親子関係と違って、友だちは血でつながるのではなく、友情と愛情によりつながっています。厚き友情と深き愛情なき友達はうわべだけの、一時の、お付き合いの、見せ掛けの友達であり、そこには心と心の深い通いがなく、真実の友達とは言えません。

お互いの人格を尊重する事は、友達と付き合う上に特に心に留めておくべきことです。人は誰も皆、尊い仏性を持っており、ほとけさまの前に人の上下はありません。すべての人は尊いのです。自分はつまらないという劣等感と自分は人一倍偉いという高慢心を表に出しては、心の友情は生まれません。「親鸞は弟子一人も持たず候」、何と力強いことばでしょう。私たちから見れば、沢山のお弟子がありました。しかし、親鸞聖人にとって、これらの人は弟子ではなくて仏道修行、仏徳讃歎の友達だったのです。沢山の友達を持った人なのです。常に、真心込めて人に接し、多くの人から慕われた人なのです。私たちも、聖人のこの御同朋、御同行の精神をよりよく身につけて、友達と交際したいと思います。


第四十一話    心 の 病 い

涅槃経には、人には三種の病気があると言っています。勿論この病気は普通世間で言う病気ではなくて、宗教的な心の病気、魂の病といってよいでしょう。それは、貪欲、瞋恚、愚痴の三つです。三毒の煩悩ともいわれています。普通の病気にも数多くの種類があるように、心の病にもいろいろありますが、この三つは典型的な欠点です。貪欲の病気の人は、自分の我欲を満たす事ばかりに心をとられ、他の人の幸せのことは全然無関心です。瞋恚の病気の人は、すぐに怒りを外に表す気短かな人で、人間生活に大切な我慢と辛抱のない人です。愚痴の病気の人は、他の人に気にも留めないような小さい事に不平を言う人で、新しい解決の道をみつける代わりに過ぎ去った過去を見て不平不満に時間をついやしています。世の中には私たちの力ではどうすることもできず、そのまま受け入れるか又は、あきらめねばならないことが多いものです。この三つの病気を持つ人は、まわりの人ばかりでなく、自分の身をも傷つけています。これらの人は、まちがった人生観を直して、もっと現実的に物事をみるべきだた思います。

これは、あまりにも極端な例で、みんながこのようではないでしょう。然し、私たちはみんな程度の差こそあれ、三毒の煩悩のあることを認めないわけにはいきません。病気の時にお医者さんに診察してもらって、薬を飲んだりオペーレーションをするように、三毒には教えが必要です。これにはまず第一に、自分が完全でないという謙虚になることが大切です。高血圧の人は自分の心臓の悪い事をしることが大切です。医者にも行かず、心臓の悪い事を知らないならば、治療の時期を逸し、または命まで落とすかも分かりません。

貪瞋痴は、心の毒であり、取り扱いをあやまると、滅してしまします。お釈迦様は、その根本教義として四聖諦(苦諦、集諦、滅諦、道諦)をおしえられましたが、この四段階は医者が患者を診察する時に用いる手段とまったく同じです。お医者さんが、まず第一に悪いところを見つけ、第二にその原因を見つけ、第三にどうしたら治せるかを考え、第四に施薬治療して病気を治すように、仏教も同じように四段階で悩みから幸せへと人を導きます。

仏教が科学の時代の宗教と呼ばれ、また釈尊は大医王と呼ばれるのは他でもなく、この医者の四段階の手段を用いて、人々を悩みから救ったからです。釈尊の教えは、私たちの欠点をなおすと同時に、正しきを益々伸ばし、心温かき人に育てる事でしょう。釈尊の慈悲深き教えを受ける私達は幸せです。


第四十二話    年 の は じ め

「さしのぼる 朝日のごとく さわやかに もたまほしきは わが心なりけり」新年を迎えると、いつもこの明治天皇の御製を思い出します。何にもさえぎられる事なく干菓子の空に昇る朝日のように、さわやかな心を持ちたいとおもうのは、年の始めに当たってのみんなの希望でしょう。新年には誰も誓いを立てるのが慣わしとなっていますが、あなたはもう何か今年してみたいという誓いを立てられたでしょうか。

一年を通して、さわやかな心を持ちたいということは、立派な誓い出えはないでしょうか。私たちは誓いや願いを数多く立てますが、大抵の場合はその場限りになって時間がたつにつれて忘れてしまったり、時には誓いと全く反対の事をしたりしています。これでは、何のための誓いか分かりません。誓いとは、冗談事ではなく、誠に真剣な事です。新年に当たり、一つ真剣にさわやかな心を持つ事を誓おうではありませんか。そして、それをただ口先で云うだけではなくて、身をもって行うようにしようではありませんか。

雨も風も嵐もある人生の事とて、自分の思い通りに事が運ばない事が多くやって来るでしょう。しかし丁度、雨風があるために、よく晴れた日を余計に喜べるように、人生のつらさ、苦しみを乗り越える時に、人生の幸せも余計に感謝できるようになるのです。心の悩みがなくなり、さわやかな心を持つ事ができる時、人間は本当に幸せになることができます。

では、果たして、平常心、さわやかな心を持つことができるのでしょうか。落ちぶれて自分をあわれに思う時もあるでしょうし、自分の期待通りに物事が運ばずいやだと感ずる時もあるでしょう。友達との仲が悪く、どうしたらよいかと迷う時もあるでしょう。不意に不幸がやってきて涙の止まらない時もあるでしょう。友達にうらぎられて腹の立つ事もあるでしょう。四苦八苦の言葉通り、人生には苦しみ、悩みが満ち満ちています。

然し、こんな世の中にも、さわやかな心を持つ事のできる道はあります。それは我慢と慈悲心だと思います。どんな苦しい立場に立っても、じっと我慢するとき必ず明るいマイ地は開けてくるものです。我慢の反対は自暴自棄です。やけです。この我慢ができずにやけになり、身を滅ぼす人を多く見ますが、この自暴自棄は苦しみを救うみちではなく、返って苦しみを大きくするばかりです。我慢は人間の徳です。つらいが我慢する、これができるようになれば、人間も大分出来上がったと言えるでしょう。この我慢と共に、さわやかな心を持つもう一つの道は、慈悲心です。友達に悪い事をして仲が悪くなった時は、自分の悪い事に気付いて早くあやまる事が大切でSYが、時には自分が正しいのに、友達からひどい仕打ちを受ける事があります。飼い犬に足をかまれる場合です。こんな時に、相手を憎んで仕返しをしてやろうと思っては、にくしみは益々大きくなるばかりで、さわやかな心など持てるものではありません。自分の悪い時、人から許してもらった時の嬉しさを思い、たとえ相手が悪くても、腹の立つ心を抑えて笑顔で相手を許す事が大切です。これは、とても難しい事ですが、この難しい事をする時に、さわやかな心を持つ事ができるのだと思います。

長いじんせいには、まちがいもあります。自分は間違いをしないでおこうと思っていても、どんな因縁によってか、まちがをすることもあるでほう。お互いに許し合って生きる事が何より大切だと思います。一九六三年が愈々始まりました。この一年、我慢と愛情によって、苦しみの中にもさわやかな心を持ち、幸せな一年を送りたいと思います。


第四十三話    第 三 の 目

私たちは誰も二つの目を持っています。親からもらったこの目のお蔭で、本も新聞も山も川も道行く人も見ることが出来ます。色や形や大きさも、この目によって見分けられます。今お話したいのは、この顔にある目ではなく手、私たちの胸の中にある心の目についてです。

毎日私達は父母兄弟子供等と一緒に住み、衣食住にも不自由なく暮らしています。水道の栓をひねれば水も出るし、夜には電灯もつきます。日ごろはなんとも思わず、当たり前のように思っているこれらのものにたいしても、心の目が開けば、ありがとうという感謝の気持が湧いてくるものです。釈尊が、この世には盲人が多いといわれたのは、感謝の心を忘れた私たちのことを言われたのでしょう。ひと時でもなきてはならない空気でさえも、ありがたいとはおもわず、また自分を育てて下さった父母の恩も忘れて生活しているのが、私たちの本当の姿ではないでしょうか。残念ながら、忘れても良いようなことはいつまでも憶えていて、反対に憶えておくべきことは忘れてしまいます。私は、二年ほど歯医者さんにいかずにすみましたが、二週間ほど前から歯が一本うずきだしました。痛くないときは何とも思わなかったのに、今は痛い歯を押さえるたびに丈夫な歯のありがたさが分かります。歯が痛くないとき、私の心の目はしまっていました。皆さんは、自分の体の健康を感謝しておられますか。感謝するかわりに、年をとったとか、どうも早く疲れるとか、愚痴をこぼして折られる人が多いのではないでしょうか。年はとっても、病気にならず体の元気な事ほどありがたいことはありません。健康な体は感謝すべきことです。

物事を悪く取らずに、善意に解釈することができたら、この世が見違えるほど、住みやすくなります。上を見れば限りがありませんが、下を見ても限りがありません。病気で休んでいる人もあるだろうに、お蔭で元気に暮らしていただいていると、心の目を開けばやはり感謝できます。私たちが心の目でみれば、世の中のすべてのものに対して、感謝することができます。もう子供ではありません。物事の分かる一人前の私たちは、不平、不満、愚痴を言う代わりに、感謝の目で人や物を見ましょう。としわかくして早死する人もあるのに、オヨや妻や子供や友達のない人もあるのに、お金がなくてその穂の生活にも困る人が世界には数多いのにと思えば、今まで気付かなかったことが感謝と変わります。皆さんと同じように移民として、南米のドミニカは渡った人達は夢破れて、涙とともに着の身着のままで、この間日本に帰って行ったと新聞に出ていました。渡米当時、一世は数々の艱難辛苦をされましたが、今は子供も立派にそだち、生活も安定してきました。ドミニカ移民の人々と比べれば、どれほど幸せか分かりません。豊かな国アメリカに住み、世話してくれる人があり、慰め励ましあう人のある私たちは幸せ者です。

日本のことわざ「灯台下暗し」は、肉眼はあっても心の目がなく、身近にある感謝すべきものを見ることが出来ない人にも当てはまります。ものがたくさんあり、お金がいくらあっても、心の目が開かない人には真の幸福はやってきません。感謝の目を開けば、この世界はより意義深く、より楽しいものとなります。仏教は、私たちに感謝の目をあたえ、これにより仏の慈悲も私たちの胸に至りとどきます。


第四十四話    父 を 想 う

今日六月十七日は「ファーザーズデー 父の日」です。アメリカばかりでなく、世界の多くの国で「父の日」が祝われます。物がいえるようになった時にはすでに父はこの世に居ず、私は父に向かって「お父さん」といった事はありません。然し、「父の日」を迎えると、何故かひとしお父の事が頭に浮かびます。私が生まれて四、五時間後に仏さまの国へ行ってしまって、思い出はひとつもありません。しかし、幸いに親戚や母から聞いたり、写真や日記を見たりして、どんな人であったかが分かってきました。

女二人の後に私が出来たので、「大、坊やが生まれたか」とうれしそうに見上げていたと聞きました。私はこのことを思う時、父親の願い、父親の期待を身に感じて、「しっかりしなければいけないぞ」と自分に言い聞かせます。島根県の伯父は、「義明、お前はお父さんの生まれ代わりだから、がんばりなさいよ。そして、お母さんを大事にしなさいよ」と言いいます。「こんな時。父さえいてくれたら」と思うこともあります。そんな時、私は親鸞聖人のつくられた「恋しくば、南無阿弥陀仏をとなうべし、我も六字の中にこそ住め」と言う和讃を口ずさみます。私はこれを父親の言葉だと思っています。「恋しくばナムアミダブツをとなうべし。我も六字の中にこそ住め」と口ずさみ、お念仏を唱える時、父と語り合うことが出来るような気持ちになります。同じ信仰を通じて二人は離れず、いつまでも一緒にいるように感じます。信仰は言葉で言ったり、字に書いたり出来るものではありません。信仰は心で感じ取るものです。たとえから打破あんくなっても、父と同じ信仰に生きる時、父は何時までも私の最良の父であり、私は父の息子です。

私と一世の方々とは、年齢は大いに違いますが、父なしと言う点では共通です。父が元気でいてくれたら、これに越した幸せはありませんが、やはり愛別離苦は人生のならわしです。どうする事も出来ません。淋しいが仕方がありません。自分一人だけではなく、どの人も同じ悲しみを持っています。みなさんおなかには、亡くなったお父さんとの思い出を今もなお忘れずに持ち、今日の「父の日」に当たって、父在りし日のことを思い出して折られる人も多いことでしょう。子を想う心は、父親も母親となんら変わるところがありません。わが子可愛さのためには、火の中水の中、どんな犠牲もいとわずに育てて下さったのが、お父さんお母さんです。今日、お元気なお父さんのある人は、日ごろのご恩に感謝し、同時に、今後親を助け親孝行を致しますと誓う日ですが、お父さんの亡くなった人は、この世で親孝行はもはやできません。ただ、今までに父親から受けたご恩に
感謝し、亡き父を偲ぶだけです。

亡き人とは、信仰なくして相通ずることはできません。ただ信仰によって、この世限りの父と子でなく、永久にいついつまでも続くという親子関係をとてもすばらしいと思い、胸を打たれ心温まる思いがします。これこそが、本当のちちであり、子であるような気がします。

お父さんの言われた皆さんへの願い、忠告、希望などを覚えておられるでしょう。どうか、亡き父の遺志を受けついで、お父さんの期待にこたえてください。また中には、お父さんの長所や立派な性格を思い出す人もあるでしょう。どうかお父さん以上に、その長所を自分のものにしてください。お父さんは、この世からなくなっても。今は仏さまの国から、私たちを導く導師です。仏さまのお浄土に生きる父を信じ、今日はお父さんをもう一度心から慕い、お父さんに感謝しましょう。


第四十五話   日 本 語 学 校

愛央仏教会へ来てから、丸一年が過ぎました。日毎に、ここオンタリオの地と人が好きになっていきます。一週間のうちで一番うれしいのは日曜日の朝の日曜学校で、子供達と顔を合わすことです。ただの週一回ですが、この若く元気な子供達を見ると、自分まで若返る思いがし、次の日曜日までがんばろうという心が湧いてきます。子供達は無邪気で、元気溌剌たるものです。もっともっと、子供達と一緒にいたいと考えていました。

そこで、私は次の月から日本語をこの子供たちに教えようと決心しました。日本語学校を開くもう一つの理由は、先日の日本での出来事です。アメリカ合衆国司法長官ロバート・ケネデイは、先週の日曜日八日間縄たる日米親善旅行のため、羽田空港に到着しましたが、空港では日本語で挨拶を読み、熱狂的な歓迎に合いました。私はテレビでこの模様を見、彼の日本語を始めて聞きました。彼の日本語は、お世辞にも上手とはいえず、聞いていてやっと訳が分かる程度のものでしたが、ここで上手下手は問題ではなく、たしかにケネディは英語で話した以上に、下手な日本語の方が、神前の目的を果たしたと思いました。もしも、ケネディが英語で話したら、日本人の頭を打つことは出来ても、胸を打つことはでかなかったでしょう。

日本語はそんなやさしい言葉ではありません。一週一度の授業で、多くはならえませんが、親が池と言うから仕方なく来るというのではなく、もしも、本人が本当に勉強する気ならば、かなりの日本語が習えるはずです。「」馬を川までつれてくる事は出来ても、水が欲しくない馬に水を飲ますことはできない」という諺は、勉強するにはその意志があるかないかが問題である事を教えています。白人の子供は、日系人の子供よりもよく日本語を勉強するのは、他でもなく習いたいと言う意欲が、この違いを生むのでしょう。宗教のことには授業中、一切ふれません。全力を挙げて、子供たちに興味深く、そして愉快に日本語を勉強してもらえるようにします。宗教の如何を問わず来てください。授業料は将来、仏教会聖堂の長椅子購入に使いたいと思います。

外国を知る第一の道は、その国の言葉を知ることです。言葉知らずでは、互いの意見の疎通ができません。第二次世界大戦後、日米関係は結うこと相互ロ海の段階に入りましたが、今後ますます親密になるのではないかと予想されます。だから、アメリカ人、特に日本人を生みの親に持つ二世、三世の人達が、日本語を習う事は大きな意味があります。日本語は魅力的な言葉です。英語とは語順が全然違うし、勿論、発音も書体も大変な違いです。然し、人間は日本人であろうと、アメリカ人であろうと、同じ心を持っており、ただ書いたり、しゃべったりする方法がちがうだけです。この日本語の勉強を通じて子供たちが、よりよく日本を理解し、より強い日米友好のために尽くしてくれる事を切望します。

将来、にほんへ観光旅行で、あるいはビジネスで訪問する事があるかもしれないし、日本の友人や親戚に手紙を出すこともあるでしょう。又、この国で一世に「おじいちゃん、おばあちゃん こんばんわ」と言ってごらんなさい。どれほど一世は、孫たちの日本語を聞いて喜ぶことでしょう。日本語を勉強することは無駄ではありません。どうか、来月からの日本語学校に皆さんの子供を送って下さい。


第四十六話    嫁 と し ゅ う と

息子の妻が嫁であり、息子の父が舅(しゅうと)、息子の母親が姑(しゅうとめ又はしゅうと)ですが、「嫁としゅうと」といえば仲が悪い代名詞のように普通言われています。何故、そのようなことが言われるようになったのでしょうか。中には、よそ目にもうらやましいような仲の良い嫁としゅうとの家庭も沢山ありますが、あまり良くない家庭も多いようです。一番大きな原因は、嫁が来ると今まで育ててきた自分の息子を嫁に取られてしまったような気持ちになり、そのきもちが自然に動作に現れて、何事につけてつらく当たることです。しゅうととはうるさいものと言われるのは、ここに原因があるようです。

息子を長い間ずっと育ててきた父親、母親にとって、息子が結婚する時にはうれしい気持の反面に、さびしさがこみ上げてくるのは止むを得ませんが、その淋しさが嫁いじめに変わるのは方向違いです。同居することになる時、心の持ち方次第では淋しいどころか、嫁がきてくれて家族が一人増えたと思うと、喜びが大きくなるのではないでしょうか。今まで水入らずの家に、他人が来て水が入ったと言うような考えをせず、家族の一員として温かく迎え入れてあげることが大切ではないでしょうか。息子を取られるといっても、息子は誰にも取られません。いつまでたっても、息子は息子です。息子が結婚する時には、息子を取られる代わりに、自分の娘がもう一人できたと思ったら、嫁いじめなどできるものではりません。

私は、息子の嫁との仲の良くない「しゅうとさん」には、いつも「あなたに娘はいませせんか。その娘さんが結婚先で、いじめられたとしたら、あなたはどんな気がしますか。嫁いじめは罪悪ですよ。」と話しています。どこの親も、自分の子に対する気持には変わりがありません。心配している嫁の親の気持になる時、嫁いじめはわるいことだとわかっていただけるのではないでしょうか。

自分の家の家風に合わぬとか、何も知らぬとか、気か利かぬとか言わずに、少し時間を上げたらどうでしょうか。何もすぐには分かりませんし、まして、他人の家に来て勝手がわからないし、又、遠慮しがちで、十分力を発揮できるものではありません。嫁はいったん嫁入りしたならば、そこを自分の家と決め、夫の父母を自分の親、本当のお父さん、お母さんとして仕えていく事がたいせつですが、年の多い舅と姑は、あまり口出しせず、若い者に従っていくような気持で温かく見守ってやることが必要だと思います。もしも、冷たい仕打ちをしたら、知らない家に初めて来た若嫁に頼りになるのは、息子一人です。益々、間が開いていきます。もしも、自分の息子が可愛いならば、その息子の妻である若嫁も同じく大事にするのが当然でしょう。自分が嫁に来た時には夫の親たちからひどい目にあったから、お前も辛抱しなさいと言って、辛くあたるのはすじが通りません。苦労は自分ひとりだけで充分ではないでしょうか。「嫁は根性が悪い」と言いたくなる人は、それは自分の悪い心が写っているのではないかと考えていただきたいと思います。良い種をまけば、良い実が出来、悪い種をまけば悪い報いがやってきます。嫁を大事にする時、息子が離れていくはずがありません。嫁にやっしくすれば、嫁に嫌われるはずがありません。嫁の事をとやかく言う前に、まず、自分を振り返っていただきたいと思います。

時には、気に入らないこともあるでしょう。また嫁が間違いをすることをあるでしょう。でも、若いもののした事として、又自分の娘がしたことと思って、見逃してあげていただきたいと思います。平和な家庭は、やはり弱気をいたわり、お互いに譲り合うところに生まれると思います。平和な家庭はそばで見る目にも良いし、その中に住む人には、それ以上に心地よいものです。


第四十七話  ク リ ス マ ス と 仏 教

クリスマスまであと二日。皆さんはこのめでたい日の準備に追われておられる事でしょう。今朝、日曜学校の子供たちは、学校からプレゼントをいただき、又、友だち同士で贈り物を交換しました。クリスマス・ツリーもかざられ、盛大なパーティでした。仏教の信者が、キリスト教の開祖の誕生日をお祝いするという愛央仏教会の恒例の行事を、私は今ではとてもうれしく思っています。世界の宗教の中でも、特に寛容な仏教だからできることだとよろこんでいます。

今年もまた五、六人の仏教徒でない人から、「どうして仏教徒はクリスマスを祝うのか。キリストの誕生日ということを知っているのですか。」という問いを受けました。その答えは簡単。キリストの誕生日だから、仏教徒もまた祝うのです。イエス・キリストは歴史上の偉人の一人です。私たちは釈尊の教えを信じていますが、キリストその人の教えに対しても、尊敬の念は持っています。バイブルを読んでいると、しばしばキリスト教が仏教とあまりにも似ている点があるのに驚かされます。キリスト教の重要な教え、「何時の敵を愛せよ」とか「人にしてほしいと思うことは、他の人にもなすべし」などは、そのまま仏教の教えです。名前こそ違っていても、この二つの宗教の目指す目標に違いはありません。仏教は干菓子へひろがって慈悲の宗教となり、キリスト教は西へ広がり愛の宗教となりました。しかし、ともにアジアに起こり、人類の平和と幸福という同じ目標に向かって、世の人々に働きかけています。仏教とキリスト教は仇(かたき)ではなくて、良き友達です。争いと憎しみ多きこの世に於いて、仏教とキリスト教は、いかにして憎しみを愛の心により克服し、いかにして同朋愛、兄弟愛の精神を外に表していくかを教えます。

過去の歴史を振り返る時、宗教の違いによって多くの争いが起こったことに驚かされます。宗教を信ずる者が、その教えを行わずに、人に口先だけで愛だの慈悲だと教える事はできません。同朋愛を信じ敵さえも愛するのが宗教を信ずる者です。まして、この二つの宗教は敵ではなく、良き友なのです。敵さえも愛すべき私たちが、わが友をそれ以上に愛すべきなのは当然のことです。イエス・キリストはクリスマスの日に生まれました。お友だちのこのうれしい日の喜びを、仏教徒の私たちも分かちたいと思います。クリスマスに当たり、キリストを信じる友に友情の念を、そして、特にキリスト教の開祖に対して敬意を表したいと思います。

他の人々や宗教に対して、排斥したり無関心を装うことは関心したことではありません。私は、仏教を信じる人たちが、今朝、クリスマスツリーを立ててお祝いしたことをうれしく思います。このクリスマスシーズンに当たって心すべきは、贈り物の交換ではなくて、クリスマスの精神 -愛と同朋愛(隣人愛)- だと思います。どうか、この教訓を今年のクリスマスから汲み取っていただきたいものです。異なる宗教に属していても、私たちはキリスト教を信じる人の良き友であることに変わりはありません。共に手を取り合って、無智と自己中心の心と闘い、そして、世の福祉と発展に寄与せねばなりません。言葉をかえれば、私たちは互いに良き競争者です。キリストを信じる人はキリスト教の教えを忠実に従い、仏教徒は釈尊の教えに従い、同じ目標に向かって進んで行くのです。このめでたいクリスマスシーズンに当たり、心からわが友に対して、およろこびの言葉を送りたいと思います。


第四十八話     愛

世界中の宗教の中に「愛」を説かないものは、ほとんどありません。もしも、宗教から「愛」を取り去れば、宗教は単なる知識か哲学となって、人をひきつける力を失い、宗教の意義を失います。この宗教に於ける愛は、日常の会話の中で使われる愛とは、大きな違いがあります。愛には三種あります。

第一は、普通、人々が愛という時の、男女間の愛です。この愛は、条件付きであり、「与えて取る」主義の愛です。「私はあなたを愛します。だから、あなたも私を愛して下さい」という心理であり、愛されることを期待して愛する愛情です。この種の愛では、望みが薄いと分かると愛もそれと同時に薄れていきます。損得を考えに入れてる利己主義的な愛情です。第二の愛情は、親と子の愛です。男女間の愛よりは、選り純粋で、より高尚な愛です。損得を忘れて、親は子を育て、子は親に孝行しようと努めます。然し、この親子の間の愛情も、自分の家族以外の人を同じく愛する事が出来ないという、利己主義的なところがあります。どの親も、自分の家族以外の人を自分の子ほど愛する事はできないし、子も、他の人の親を自分の親と同じように愛する事はできません。これが、この親子間の愛情の弱点であり、「人皆兄弟なり」と言う思想は生まれてきません。

一番崇高な愛は、言うまでもなく、第三の宗教的愛です。愛という言葉を使わずに、仏教ではこの宗教的愛のことを慈悲といいます。第一、第二のあいのように、愛という言葉を使う時には、損得を考える人間の利己心が含まれる事が多いからです。慈悲とは、損得など利己的なことは一切考えず、ただ相手の幸せのみを願う仏心です。子供のためにはどんな事でもと思う気持を更に大きくし、この世のすべての人をわが子のように愛するのが慈悲の心です。仏教徒とは、仏を模範とし、仏の慈悲の心を理解し、それを自分の者としようと努める人です。慈悲は仏教の表看板であり、〖慈悲の宗教〗と呼ばれています。自分中心の自己愛の壁を容易に乗り越えられない私たちに、利他の愛、慈悲の精神を教えてくれます。お彼岸の季節にあたり、みんなこの慈悲の精神を、わがものとするよう努めましょう。


第四十九話  幸 せ は 近 き に あ り

誰一人として幸福を望まない人はありません。実際、私たちは毎日毎日、幸福を求めて生活しています。さて、その幸福とはどんな者でしょうか。小学生の時、カール・ブッセの詩を暗記させられました。「山のあなたの空遠く 幸い住むと 人の言う。ああ われ人と とめゆきて 涙さしぐみ 帰り来ぬ。山のあなたに なお遠く 幸い住むと 人の言う。」山の向こうにあると言う幸せを探しにでかけたが見つからず、涙を流しつて帰ってきた。すると、また人は、山の向こうのもっと向こうに幸せがあると言う。ああ、幸せはやって来ないというやるせない歌です。一世の方には、この詩はよく胸にこたえることと思います。

アメリカには、「お金がなる木」があると聞いて渡米された方もあるでしょうが、いかに豊かなアメリカでも、お金は容易に手に入りません。そして、たとえお金がでたとしても、それが幸せとはいえません。何故ならば、お金があっても不孝な人は世の中に多いからです。お金で寿命は買えないし、まして幸せは幸せは買えません。幸福とは物質的なものでではなく、精神的なものだと思います。

先日、詩吟の本を見せてもらっていたら、支那の戴益の作った「春を探る」と言う詩が目につきました。これもまた、小学校か中学校の時、漢文の時間に習ったもので、懐かしく思いました。

  「終日春を訪ねて春を見ず。杖黎踏破す 幾重の雲。帰り来たり、
   試みに梅梢をとってみれば、春は枝頭にあって、すでに十分」

一日中、野超え山超え、杖を突きつつ春を探したが、春を見ることが出来ず、我が家に帰り、ふと庭先の梅の枝を手にとって見れば、春はそこにあったという詩です。前半分は先のカール・ブッセの詩とおなじですが、後半の「帰り来たり試みに梅梢を取ってみれば、春は枝頭にあってすでに十分」は、鮮やかに幸せに歌ったものだと思います。

私たちは、普通他所の人を見て、あの人は幸せそうだなあ、あんなになればよいなあと思って、上を見れば限りはないと口では言っていても、上ばかり見ているのではないでしょうか。山のかなたや雲の果てに幸せはなく、つい庭先の梅の小枝の上にあると、この詩は教えています。私たちの身の周りを見直しましょう。幸せは案外、身近なところにころがっているものです。自分の父母、子供、孫、友達や健康に感謝するとき、幸福感が湧いてくるのではないでしょうか。法句経に釈尊はわずらいなきこと、足るを知ること、頼りをもつこと、友を持つこと、涅槃の道あること、母あること、父あること、信仰をもつこと、悪い事をしないことはしあわせだと言っています。(法句経 201、231,332、333)「道は近畿にあり、これを遠きに求む」と昔の人は言いました。お互いに、忘れたり、見逃した  りしているこれ等のものに対して、もう一度新たに目を開き、感謝の気持でこれ等のものに接したいと思います。幸せはついそこまで来ています。幸せとは、私たちの心持次第です。


第五十話    感 謝 祭

感謝祭が近づいてきました。十一月の第四木曜日、今年は十一月二十三日が感謝祭(サンクス・ギビング・デー)です。この感謝祭は、今から丁度三百四十年前に清教徒(ピューリタン)と呼ばれる英国移民の人々によって始められました。

一六二〇年十二月二十一日に、信仰の自由を求める百二人のイギリス人男女が帆船めーフラワー号に乗って、自由の天地を夢見て、今のマサチューセッツ州のプリモス港に入港しました。目的の地に来たとはいえ、慣(な)れない土地の上、食料や住む家も充分ではなく、しかもほねにもしみと通る寒さのために、一冬越した翌年には、半分以上の人達が亡くなってしまいました。中でも女の人たち十八人の内、十四人は哀れにも犠牲となりました。移民当初からのこのような苦難に屈することもなく、残った人は開拓に従事しましたが、その甲斐あって秋にはカボチャやトウモロコシが立派に実りました。みんなが、この新天地での始めての収穫を心から感謝して、ご馳走を作って祝ったのが感謝祭の始まりです。

今年もまた感謝祭のシーズンを迎えて、清教徒の苦難を思う時、私は同じく移民としてアメリカ大陸へやってこられた一世のことを思わずにはいられません。この夏のお盆の時、ベーカーとラグランデに行き、丘の上に草に埋もれている年若くして故国日本を夢見ながら亡くなった方たちのお墓にお参りした時、当時の生活を偲びました。血気盛んな二十歳前後の若者も、慣れぬ土地で毎日の激しい肉体労働に倒れたのでしょう。夢破れて、この異国で命終わる時は、さぞ心残りがあったことでしょう。成功の成功の裡には、必ずこのような犠牲がつきまといます。

このような渡米当初の時代も過ぎて、日本から花嫁が海を渡ってやってきました。写真結婚のはやったのは、この時代です。生活が少しは楽になったとはいえ、デンキもガスも水道もない掘立小屋での生活は、生きることがやっとで、楽しみには程遠い毎日でした。そのうちに子供が相次いで生まれ、苦労がまた増えましたが親の本能といいましょうか、子供にだけは親の苦労をさせたくないと、死にものぐるいでがんばり通されました。

日本の歴史の中で、明治時代は日本が海外に向かって発展し、近代日本の基礎を築いた時代です。朝鮮、満州、台湾、支那、樺太、ハワイ、北米、カナダ、ブラジルにと、ぞくぞくと日本の若者が海を渡りました。明治に生を受けた一世は、この時代の精神を身につけて、どんな事に出会っても、これにくじけずに堂々と立ち向かっていきました。寂しさの中にも、日々の労働の辛さの中にも、これを耐え忍び、明るい未来を夢見て働き続けました。

しかし、目指す幸福は容易にやって来ず、反対に多くの試練が襲い掛かってきました。一九三〇年代には、大恐慌の不景気がやってきて生活は一層苦しくなったし、一九四一年には、日米の太平洋戦争が始まり、西部沿岸から強制立ち退きに遇って収容所生活を経験せねばなりませんでした。日本から急に英語の世界にやってきて、数々の不便と寂しさにも悩まされました。アメリカに於ける一世の歴史は、波乱に満ちた人生でしたが、一世諸氏は行く手に立ちふさがる艱難辛苦を、みごとに克服した勝利者だと言えましょう。

今までの苦労を内にかくして、顔には何もなかったように装う一世の方々を見る時、私は一世の開拓精神が分かった気がして、心から尊敬の念をいだきます。過ぎ去ってみれば、過去はすべて懐かしい想い出と変わります。苦しかったでしょうが、一世は誰もまねすることが出来ない体験を積んでこられました。二度と来ない人生です。一世の苦労は無駄ではなく、それは二世のため、三世のために捧げられた一生でした。一世の辛抱苦労は、今立派に報いられたのです。異国アメリカで苦しくとも波乱万丈の人生を、見事に乗り越えた一世パイオニアに敬意を表して感謝祭を迎えたいと思います。

米国仏教放送 百話 (2)おわり


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