Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - その他関係
26 - 俳句によるツール・レイクの回想 - 松田一恵
         
 

俳句によるツールレイクの回想    松田一恵 (まつだかずえ)

Poetic Reflections of the Tule Lake Internment Camp 1944
Violet Kazue de Cristoforo
formerly Kazue Matsuda

 

あるは踏まれたんぽぽ一つ正しく咲いた

 ツールレイク「隔離センター」は、オレゴン州境に近いカリフォルニア北端にある火山帯の溶岩と火山灰の上に建てられていた。春から夏にかけては空気は乾燥して埃っぽく、冬は泥沼のようになり、収容者は食堂や自分たちの共同便所へ行く事も出来なかった。従って、収容者達は自分達の手でバラックの宿舎とこれ等の施設をつなぐ すのこ式の狭い板の通路を作って使用した。

 長く厳しい冬が終わる頃、タンポポが通路の板の隙間から芽を出したが、通る人に踏まれてしまった。ほとんどのタンポポが打ちのめされた収容者と同じように踏みにじられた中で、或る日私はまるで奇跡のように完全な姿のタンポポを見つけた。我慢を強いられ、忍従の毎日だっただけにこの完全な姿の一輪の花は私を勇気づけてくれるシンボルになった。この花を見つけた喜びは、私にあらゆる困難を克服して辛い収容生活に耐え抜いて行こうという固い決心を与えてくれたのだった。

 

ARUWA FUMARE TANPOPO HITOTSU TADASHIKU SAITA

Many Dandelions Are Stepped On Only One Blooming Properly

DANDELIONS

 The Tule Lake ” Segregation Center” was built on volcanic ashes in the desolate lava beds of Northern California, near the Oregon border. During the spring and summer it was very dry and dusty, and in the winter it was a muddy swamp, making it impossible for the internees to walk to the mess hall and to the communal wash room and toilet facilities. This condition made it necessary for the internees to build wooden catwalks connecting the barracks and the facilities serving them.

 After the long and harsh winter dandelions sprang up between the wooden planks of the catwalks only to be stepped on by passer-by. One day, as if by a miracle, I found just one perfect dandelion among the many which had been crushed –as the down-trodden internees had been tramples underfoot by circumstances. As each day was a reminder of humiliating and oppressive existence we were forced to endure, this one perfect blossoming dandelion was a symbol which inspired and fortified me. The pleasure I derived from this one blossom filled me with determination to endure the harsh conditions of camp life and to overcome all obstacles and difficulties.

 

強き日の光り家皆低し家皆黒

 六平方マイルの火山灰の中に一万八千人を収容する最大のツールレイク収容所にも、春や夏が訪れた。けれども、それは高地であるが故に極端に遅かった。

 長く重苦しかった冬の後の夏の直射日光はきつく、タール紙を貼り付けた宿舎に濃い影を投げかけ、それは宿舎を一層低く黒いものに見せて、尚更惨めで希望のない建物に見せていた。

 

TSUYOKI HINO HIKARI IE MINA HIKUSHI IE MINA KUROSHI

Strong Sunrays Barracks Are All Low And Dark

SUN RAYS

 The arrival of spring and summer is typically late in the high plains of Tule Lake, the largest of the ten internment camps built to house more than 18,000 detainees on about six square miles of black volcanic ash.

 After the long, gloomy winter days the intense glare of summer creates a strong contrast and makes the low, dark, tar-papered barracks seem even more dismal and disheartening for the internees.

 

蜘蛛の巣 黒み みとせ 住まふ

 幼子は昼寝の眠りについた。死期の近い義母を見舞って来よう。彼女はサンタフェ抑留所にいる一人息子からの消息を心待ちにしているのだ。夫への手紙、夫から私や義母への手紙は全グ検閲を受けている。だから情報は乏しい。今日は義母に何と云おうかしら。

 ツール・レイク収容所が出来て三年、蜘蛛の巣までがくろくなっている。蜘蛛の巣さえも私の注意をひく程の無聊かな部屋でいつまで抑留されるのだろう。

 

KUMONOSU KUROMI MITOSE SUMAU

The Spider Web Turned Black Confined Three Years

SPIDER WEB

 My baby is taking a nap and soon I shall leave for a camp hospital to see my dying mother-in-law, who is still waiting to hear from her only son interned in the Santa Fe camp. Letters to my husband and his letters to me, and to his mother, are censored and news is scanty. What shall I tell her today.

 This is the third year the Tule Lake Segregation Center has been in operation and even the spider webs have turned black. What a long confinement it has been in our barren room where even a spider web focuses my attention!

 

山のかたち覚え冬の日歩く一方へ

 モドック・インディアンの最後の戦場となったキャッスル・ロック・マウンテンはツール・レイク時代の私には印象的だった。又、キャッスル・ロック地区には収容所当局の本部や病院,軍警察等があり、そして悪名高い極悪犯隔離所、“ブルペン”もここにあった。

 この“ブルペン”で弟のトキヲは十一月四日の食糧盗難騒ぎの扇動者として誤認逮捕され、十ヶ月もの間、法の保護を受けることもなく、屈辱的な獄中生活を強いられたのだ。私はこの地区へ何度足を運んだことだろう。私は弟を“ブルペン”から出して貰うよう陳情に行ったり、病気で余命いくばくもない義母を見舞うために、そして後には義母の葬儀参列のためにサンタフェから夫を帰して貰うよう陳情した。しかし、総ては徒労に終わった。当局は、私達の苦境と心情には全く無理解で、とうとう私に扇動者の烙印を押すことで終わった。

 どんなに見捨てられたと嘆いたことだろう。どんなに当局が私達の正義のための訴えと人間らしい扱いを望む声を聞き届けてくれるよう願ったことだろう。私は家族が人間の作った蜘蛛の巣にかかり、非人間的な扱いを受けていることにどれほど心を痛めたことだろう。 1872 年から 73 年にかけて最後まで戦ったモドック族の運命と自分達の運命を比べずにはいられなかった。

 

YAMANO KATACHIO OBOE FUYUNOHI ARUKU IPPOE

Memorized Shape of the Mountain Walk In The Same Direction On Winter Days

SHAPE OF THE MOUNTAIN

 Castle Rock Mountain, the last battle ground of the Modoc Indians, was my inspiration during my Tule Lake days. The Castle Rock area was also the location of the WRA Administration Office, the camp hospital, the military police, and the infamous “Bull Pen” of the stockade.

 It was in the “Bull Pen” that my brother Tokio was imprisoned for ten months, without due process of law, in the most degrading conditions, after being falsely accused of inciting the November fourth food riots.

 I made numerous visits to this area to appeal to the camp authorities for the release of my brother from the “Bull Pen”, to plead that my husband, who was being detained in the Santa Fe Camp, be permitted to visit his dying mother, and later he be allowed to attend her funeral. All to no avail because the authorities were insensitive and indifferent to our plight and branded me a trouble maker for my pains.

 How abandoned I felt! How I longed to have the authorities heed my pleas for justice and humane treatment! How I ached for my relatives caught in the web of man’s inhumanity to man! And always my vision and my thoughts were drawn to Castle Rock, comparing our fate to the Modoc Indians’ last stand in their Lava Bed Campaign of 1872-73.

 松田一恵著「欄の花・俳句によるツールレイクの回想」 1988 年出版より4句抜粋
 From “Poetic Reflections of the Tule Lake Internment Camp 1944”

 

デ・クリストフォロ夫人      竹村義明

この本の出版に際して、彼女は 1944 年(昭和十九年)「ユタ日報」新聞掲載の彼女作の日本語俳句15 句を選び出し、新たにこれ等の俳句に関する背景と感想を叙述した。その上で、これ等を英訳して 1988 年に印刷出版した。松田一恵の名前で出版しているが、これは結婚当初の名前であって再婚後はバイオレット・一恵・デ・クリストフォロで知られている。彼女には、1995 年にこの名前で行路社から出した「さつきぞらあしたもある」という題名で、フレスノ、ジュローム及びツールレークの集合所や収容所での日系人の俳句を集めた俳句集もある。

カリフォルニアのサリナスで初めて彼女に会ったのは、1976 年だった。当時、日系人の戦時立ち退きの補償運動(Redress for the evacuation)が始まった頃で、彼女はサリナス JACL のこの問題の中心人物で、国会議員や加州の議員などに協力をお願いしたり、各地の JACL 支部に運動参加を呼びかけていた。JACL の会員に送付する月報の重要事項の日本語翻訳奉仕が私の仕事だった。シアトル市民協会は全米中でも特に補償問題に熱心で、彼女とは補償を受け取るまで頻繁に連絡があった。彼女の夫クリストフォロ氏は文筆家であると同時に時事問題に精通していて、二人三脚で行動した。

補償問題は 、1988 年に生存者への政府の謝罪文と補償金の送付で結末を迎えた。然し、当初は「キャンプに入った一世や二世のパイオニアの多くが亡くなってしまった」とか「見込みのないことをしている。時間と経費の無駄だ」など、日系社会の間でも「期待はするが成功率は低い」と感じている人が多く、中には批判の声さえあった。彼女はこの湿っぽい空気と一向に進展しない事態への不安にも耐えて、永年にわたってがんばった。政府委員会によるリードレス公聴会にも出席して証言をしている。また、1884 年にはサリナス集合所 (Salinas Assembly Center) の記念碑建立の世話人の責も果たした。

彼女の先夫は戦時中、ニューメキシコ州サンタフェ抑留所で過ごしたが、戦後 1945 年に帰国し、彼女が戦後1946 年に日本に行った時には、すでに再婚していた。彼女は東京で 1953 年にデ・クリストフォロ氏と再婚して加州に戻った。サリナスの郊外の自宅に招待を受けて、おいしいお酒やご馳走をいただいたが、彼女の生家は広島県呉市の清酒「千福」の蔵元の山根家である。 

彼女の言語上(文書面)及び口頭での表現には行き過ぎの感がすることがある。例えば、この俳句集以外の本では relocation center を日本語にする時、 転住所とか収容所といわずに 抑留所 (internment camp) とか 強制収容所 (concentration camp) としたり、evacuation を 立ち退きとせずに 収容とか抑留としている。又、彼女は事実を充分に熟知していながら、戦時立ち退きの際に日系人は一人残らず収容所に送られたとか、収容所からの自由出所は一切許されなかったとか、彼女の戦後の日本行きを強制送還だったとかの間違った発言をし、私には見解の相違があった。しかし、この度の戦争によって彼女が受けた傷の大きさを思う時、彼女のアメリカ政府の政策に対する攻撃的な態度も理解できない事もない。

 

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