Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - その他関係
21 - 手書きの略歴
         
 

手書きの略歴

 

    略      兵 頭 松 枝

愛媛県八幡浜市海岸通リ(本籍)
 
父 山本豊松、 母 静 の長女
 
明治三十二年( 1899 )十二月一日 出生

大正六年( 1917 )愛媛県宇摩郡 三島高女卒業、同年六月渡米

千九百十九年十月五日 兵頭 績(イサヲ)に嫁す
 
子供は男二人、女三人
 
長男 泰(ユタカ)昭和二年( 1927 )四月二十二日 死亡

千九百四十二年より四十五年九月まで ミネドカ転住所

千九百六十五年六月三日 夫 績 死亡

六十六年二月より六十八年十月末迄 カリホルニヤに移住

日本訪問は二回だけ。

定義ことカリホルニヤに住んで居りますので、ごく簡単に家族葬に願ひます。

合 掌

松 枝

 

この略歴は本 人の日本語の手書き原本の写しです
(English translation: Original was in Japanese)

A BRIEF HISTORY OF MY LIFE    Matsue Hyodo

 

Place of register: Kaigan-doori , Yawatahama-shi, Ehime-ken
 
Father: Toyomatsu Yamamoto
 
Mother: Shizu Yamamoto
 
Born on December 1, 1899 (Meiji 32) as their eldest daughter

Graduated: Mishima Women's High School (Mishima Koto Jogakko) in Uma-gun, Ehime-ken in 1917 (Taisho 6) and came to the US (Seattle)in June of the same year.

Married: to Isao Hyodo on October 5, 1919
 
2 sons and 3 daughters (Eldest son Yutaka died on April 22, 1927 (Showa 2)

Minidoka Relocation Center: From 1942 to September, 1945

Husband, Isao died on June 3, 1965

Moved to California from February 1966 to the end of October, 1968

I have visited Japan just twice.

Since my son Sadayoshi lives in California, please have simple funeral with just our family members in attendance.

Gassho,

Matsue

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この「略歴」は故人の枕経の際、葬儀に先立ってご家族からいただいた。

兵頭松枝は1936 年度北米年鑑記載の兵頭績(愛媛)503 7th Ave., Seattle の妻である。松枝夫人は1996 年3月5 日シアトル市で死去。享年96 歳。葬儀はバタウオース葬儀社で仏式にて3 月9 日に営まれた。3 月30 日 Washelli Cemetery に埋骨。葬儀の記録には遺族の中に娘二人(田辺フローレンスFlorence はシアトル 、山本ハリエット Harriet イリノイ州)の記入があるが、息子・定義は死亡したのか定義の名前はない。遺族は、この外に孫10 人、曾孫4 人 as of March 5, 1996 。

1936 年の北米年鑑103 ページにシアトル在住の「山本豊松(愛媛)423 2nd Ave. , Seattle 」の記載があるから、松枝は日本で生まれて、1917 年に一世の父親・豊松のいるシアトルに来たと推測できる。当時の女性は小学校教育(尋常科、高等科)どまりが多くて、女学校に進学するのは良家か資産家の娘だったから、松枝は三島高女(高等女学校)にはアメリカの父親からの送金で通学したのだろう。

1908 年発効の紳士協定以来、日本政府は特別の例外を除いてアメリカ向けの海外旅券を発行しなくなったので、1917 年頃に日本から渡米可能なのは、日本に置いてきた妻や未成年の息子と娘、並びに独身の在米一世が結婚する相手だけだから、彼女は「父親の呼び寄せ」ではないだろうか、兵頭績が日本へ花嫁探しに行って結婚しての渡米も考えられるが、彼女は1917 年に渡米して2 年後の1919 年に結婚したのだから、そうでもないらしい。ひと昔前の写真結婚でもない。そうすると、彼女の渡米は「呼び寄せ」に違いない。本籍が日本だし、彼女が生まれた1899 年頃にアメリカで結婚生活をしている一世は極めて少数で、彼女の帰米二世の可能性は薄い。 

日本からの移民の制限があり、1910 年代(大正)の殆どの日本からの男子若者の渡米移民者はアメリカにいる親の「呼び寄せ」だった。在米一世は自分の仕事の手助けのために、我も我もと日本に残してきた息子を呼び寄せたのだが、日系社会では結婚相手になる適齢期の女性は極端に少なかった。このため、松枝のような呼び寄せ女性の場合は、引き手数多(あまた)だったに違いない。

1944 年の Minidoka 収容所の記念誌には、家族として夫妻と一男二女が記入されている。娘一人は出所していたのだろうか。

兵頭は珍しい苗字だが、日米年鑑(1936 年)スポーケン市156, 159 ページ に兵頭勘右衛門の名前が見える。 Panama Café 兵頭勘右衛門  313 Main Ave. と 住宅 兵頭勘右衛門  414 ½ Main Ave. である。松枝の夫、績の父親だろうか。

「日本訪問は二回だけ」の記述は 少なかったと言いたいのか、それとも一度も行ったことがない人もあるのに、私は二回行ったと言いたかったのだろうか。

いつ頃、この略歴を書いたのか分からないが、息子のいる加州に行って二年住んでシアトルに帰ってから書いたようだ。彼女の場合、このアメリカには兄弟もなく親戚も少なく、子供や孫たちと離れて寂しく暮す中で、自分の最後のことを考えながら書いたのだろう。それは、ただ一枚の至極簡単なものだが、その裏には書き尽くせない多くの喜びと悲しみの歴史がある。南無阿弥陀仏 竹村義明 

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