Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - その他関係
17 - アメリカ行きブーム - 小財佐吉
         
 

アメリカ行きブーム        小財佐吉

 

誰でも米を作るこの村で、利平、竹、七郎などは百姓だが一粒の米も作らないで土木の請負などして農閑期の人を使って自称親分顔をしていたようである。明治三十年頃に私の兄初次郎はこの利平や竹、千代吉、新弥、熊吉、富蔵等とアメリカへ行ったのである。この連中は何れも百姓といっても自分の田地のない小作が多く、また女房子供のいる世帯持ちが多かった。大体久徳という村は玄淋さんというお医者さんが大地主で大部分持っていた。何年かの大不作の秋「米は田から獲るのやない。00 から獲れ」等と物凄い流言が出たこともある。久徳村ばかりでない。彦根近隣の八坂や須越の琵琶湖周辺の村、水があっても大水で全村の水田が水につかる。少し湖を離れた所では渇水期には釣り瓶で水の汲み上げ、今から考えると実に原始的な仕事に追われた。我も我もとアメリカへ行った。渡航費の五十円、家も屋敷も抵当に入れて算段した。

彼らが初めて他国へ行く。勿論言葉も解らない。僅か二十歳の小若い衆の兄貴が十も十五も年上の人に交じって壮途に登ったこと、進取の気性に富んでいたのか、それとも日ごろの生活が如何に困窮していたのかが想像できる。窮すれば通ず。裕福な環境に育った者には解らぬかも知れぬ。この村も小作の貧乏人には住みにくい、米作り以外に何かをせねばならぬ。それが、我も我もと「アメリカ行きブーム」になった。

彼らの苦労は言語に絶する。手紙が来ないという話もあったが、日本字さえろくに読めないものが、言葉も違うアメリカで何としようだ。ずっと後、兄と暮らすようになってから私が何かで腹を立てた。「佐吉そう怒るな、世間にはそんな人が多いのや」と平然としている。そして「恩を忘れるばかりか後足で砂ぶっかけて行く人がざらにあるぞ」と云った。 「木間暮の生涯」 ( 小財佐吉著 ) より抜粋。

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著者、小財佐吉は滋賀県犬上郡多賀町久徳村にて 1892 年(明治 25)出生。大阪泰西学館卒、小学校の教師の時、カナダ・バンクーバーの兄の呼び寄せで、 1918 年(大正7)に渡加してビジネスの手伝いをしたが、三年後日本に帰り大阪にて糸物商売の株式会社小財商店を創業した。妻(梨枝)と結婚して一男二女に恵まれた。しかし、一人息子(俊一)は、先の戦争で一ツ橋大学在学中に学徒出陣し、ビルマで戦死した。

明治から大正にかけて、滋賀県湖東地方ではカナダもアメリカも区別せずにアメリカと云っていたらしく、上述の文章でのアメリカはカナダのことである。当時、留学、商売、政治理念などの理由で、海外に出た日本人もあったが、日本の田舎や農村からの渡航者の殆どは出稼ぎ移民だった。

渡航費五十円は船賃及びその他の渡航に関する費用だろうが、それが当時の暮らしでは大変な金額であったことは、水田一反 ( 三百坪、約 1000 平米 ) の相場が五十円前後だったことから想像できる。( 竹村義明 )  www.isseipioneermuseum.com

 
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