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物語 - その他関係 11 - 二世情報兵 - スナモト ストーリー - 竹村義明 |
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二世情報兵 - スナモト ストーリー |
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今まで何かにつけて、おもて(陽の当たる場所)に出てこなかった MIS (Military Intelligence Service 軍事情報部) と二世情報兵に焦点を当てて書き始めてみると、砂本悟トニー Satoru Tony Sunamoto の名前が浮かんできた。彼の生涯は三十三年の短いものだったが、一世の親、帰米二世、戦時立ち退き、収容所生活、陸軍志願、太平洋戦線、軍使志願、志賀司令官との邂逅、除隊、病死など多岐にわたる話題があり、「芋のつる」をたぐるように、次から次へと話は展開した。 下書きが殆どできた 2010 年 10 月、オレゴン州ヒルスボロに住む私の叔母の葬儀がポートランド佛教会であり、そこで思いがけずトニーの兄 (砂本博) の息子(Bob)に会い、トニーにシャーリー(Shirley)という娘のいることと彼女の電話番号を教えてもらった。十一月に入り、反対されるか内容に間違いが多いのではないかというヒヤヒヤした気持と、反面に何かを期待するワクワクした気持の交錯する中で、コロラド州デンバーのシャーリーに電話した。すでにポートランドの従兄弟バッブから事情を聞いていたのか、待ってましたとばかりの彼女の声を聞いて救われた。以前からの知り合いという感じで、話がはずんだ。父の事を書いてもらってうれしいと云い、私が彼女よりトニーの事を知っているのに驚いていた。早速,軍隊と語学校入所や死亡年月日を確かめた。電話会話中、彼女はシアトルに 12 月 の第一週に主人と来るという。びっくり仰天した。 それから二~三日して、トニーの写っている太平洋での写真を送ってくれた。初めてトニーを見た。同封の軍隊関係の書類により彼の身長と体重(5'8" 150 ポンド)が分かった。 12 月 8 日の掲載に間に合うように、新しい情報を基に少し訂正をして、原稿は新聞社【北米報知】に送り届けた。十二月四日に彼女は夫ダニエルと二人で、待ち合わせたベンブリッジ島 Bainbridge Island のウインスロー Winslow 波止場にシアトルからフェリーでやって来た。彼女は、声や話し言葉から想像していたような優しい人柄の女性だった。初めて会う感じがしなかった。すぐにポート・ブレークリー Port Blakeley に車を走らせた。ウインスローの波止場から商店街を通り抜けて 2 マイルほど南に行ったところ、そこがシャーリーの父トニーが生まれた所だ。 西部開拓時代、この ポート・ブレークリー とタコマのネローブリッジ Narrow Bridge の西隣にあるステイラコーム Steilacoom は、アメリカ西北部の当時の地図に大きく載っている港町で、シアトルやタコマの町がスタートした 1850 年頃に、初期入植者たちは大木を切り倒して水辺やランバーヤード(材木置き場)に運び、ソーミル(製材所)で柱や板に加工して貨物船でサンフランシスコ、遠くは日本へ送っていた。特にポート・ブレークリーには当時は西部最大の製材所(ということは世界一)ができて、四本マストの大型貨物船が港湾に常時出入りして栄えた。製材しない大木は、原木のまま何十本もチェインで巻き束ねて「Floating Forest 浮いた森」にして タグボート Tug boat で引っぱって、遠くはサンフランシスコまで運んだそうだ。材木は主にゴールドラッシュ以来、発展の進むカリフォルニアで建材となった。 1890 年ごろから、渡米した一世も多くここで働き、日本人が多いので一寸した日本人町ができて店も酒場もあった。東京の外務省に残るサンフランシスコ総領事館の 1891 年(明治 24 年)西北部出張報告書には、ここの製材所に働く日本人 69 人の男子と 1 人 の女性の名前と出身地が記されている。どんな事情があったのか、出身地は熊本県 26 人、神奈川県 18 人、広島県 9 人の 3 県が特に多い。西北部日系人社会で移民送り出し県とされる岡山、福岡、和歌山、滋賀からは一人もいない。この頃、シアトルよりも大きな町だったタコマには、在留日本人 12 人が住んでいた。 1900 年に入ると、ポート・ブレークリーには 300 人を越す一世がいたというが、製材所が 1903 年に大火事に見舞われて少し北の同島ウインスロー地区へ移転したので、多くの一世たちも移った。トニーの父親が来た 1910 年ごろ、ポート・ブレークリーには製材所働きに代わってイチゴ栽培をする日本人が多く、 Bellevue ベレビューや Vashon Island ベーション島に負けないほど盛んで、西北部の日系人社会では「ベンブリッジのイチゴ屋さん」で知られていた。 イチゴ栽培をするイチゴ農家にとって、南向きの斜面の地形、排水、地質、気候などが重要だが、長時間膝や腰を曲げて手間が掛かるイチゴ作りを、当時の他国からの移民がそうだったように、日本人もみんな文字通り「移民の如く」働いた。トニーの両親は 1910 年から 10 年近くもここでイチゴを作り、子供も四人ここで産まれた。だが、四人とも父親の与三が産婆役を務めて助産婦には来てもらわなかった。(このこともシャーリーから聞いた)ベンブリッジ島の北端に初めて橋 Agate Bridge が出来たのは 1961 年であり、それまではシアトルへのフェリーはあるにはあったが、タコマへ行くにも船を乗り継いで行かねばならず、ポート・ブレークリーは不便な所だったようだ。 1900 年前後から急速に大きくなったシアトルには日本人の産婆さんはいたが、入院が長期だった上に金銭上の理由または地理的理由で、当時は赤ん坊をハズバンドがとりあげた一世ファミリーは多かった。 シアトルからピュージェット・サウンド湾を西へ一直線に行くと、ポート・ブレークリーの南端を通過して軍港ブレマートン Bremerton がある。第二次大戦勃発の時、1942 年 3 月末の日系人戦時立ち退きの第一陣はベンブリッジ島に住む日系人だった。軍港が近くにあるからというのが、その理由だった。現在の ポート・ブレークリー一帯は、イチゴ畑もなくなって近くにはカントリークラブゴルフコースがあり、特に昔の港の近隣はミリオンダーラーホームが軒並みに立ち並ぶ高級住宅地に様変わりしている。トニーの生れはポート・ブレークリーだが、 100 年ほど前のことで番地や町並みの記録がないので、生まれた場所を探すすべがなかったが、感じはつかめた。シャーリーは数少ない残った古い農家の前で一枚写真をとった。もしも、昔の住居の所在地が分かれば、また来たいそうだ。父親との思い出が少ない彼女は、少しでも父の事を知りたいのだ。 ポート・ブレクリー を出て、ベンブリッジ島を橋で渡った所にあるインディアンカシノで食事をして、ゆっくり話をする事ができた。そこで彼女が持ってきた多くの資料を、テーブルにひろげて見せてもらった。驚きの連続だった。死亡証明書によると彼の死去は 1948 年 6 月 9 日、享年 33 歳。死亡原因は胃潰瘍の悪化だった。一般的に胃潰瘍は精神的ストレスと大いに関連があるというが、戦いのストレスの他に MIS (情報兵)という苦悶もあったにちがいない。アルバムの写真をはがしてみたら、写真の裏側にトニーが撮影日付と説明を書き入れているのに初めて気がついて、みんな驚いた。写真はミネソタの陸軍語学校の写真と太平洋戦線に出てからのものだった。通訳として戦犯裁判に立会って、判決宣告のときの写真もある。しかも殆どが死刑、終身刑、長期懲役など判決の際のものである。控訴出来ない軍事裁判で、日本兵に翻訳通告するトニーの一人の人間としての苦悶が目に見えるような法廷の写真である。 1944 年 3 月 25 日 付けのミネソタの軍事情報学校訓練終了の証書があるから、それからトニーはただちに太平洋戦線に送られ、日本攻略のための基地となるマリアナ群島サイパン(1944 年 7 玉砕)、テニヤン(1944 年 8 月)、グアム島(1944 年 8 月)や小笠原群島 Bonin Islands 硫黄島(1945 年 3 月玉砕)の戦いにも参加したのだろう。勢いに乗るアメリカはフィリピンのレイテ湾作戦(1944 年 10 月)の後、沖縄戦(1945 年 5 月)へと進撃を続けた。情報兵として常に海兵隊(US Marine Corps)と共に行動したが、無線受信、暗号解読、情報収集、投降勧告、捕虜尋問、宣伝文書作成などが与えられた任務だった。軍隊の記録によると、トニーは 1945 年 7 月 9 日付けで、負傷兵士に授与される Purple Heart Medal をもらっている。しかし、詳細が記されていないので「いつ、どこで、どんな」負傷をしたのか分からない。彼は 1946 年1月に除隊して、それからは軍属としてホノルルで情報関係の仕事に勤務することになるが、ハワイ生まれの二世 Jessie Sueno Inouye を紹介されて、お互いに初対面で一目ぼれして同年 5 月末に結婚した。 1947 年 10 月には長女 Shirley が出生し、一家は幸せに包まれていたがシャーリーが生後八ヶ月の時、トニーは胃潰瘍が悪化して入院わずか三日で亡くなってしまった。父親のことは母親や親戚から聞いた事だけで彼女自身の父の想い出は何もない。だから、今でも父のことは何でももっと聞きたいそうだ。 彼女が見せたホノルルの「真宗協会」というお寺の記録に「トニーが日本兵からもらった日の丸の旗」のことが載っていた。それによると、話の起こりは戦後の 1953 年、南太平洋マーシャル群島のクワジェリン島へ建築会社の仕事で行ったホノルルの二世の平田トクジさんが、整地する建築現場に野ざらしになって散らばるおびただしい数の日本兵の遺骨に驚いたが、米軍はお骨を持ち出すことを許可してくれないので、お守りや勲章などの遺品を集めて、彼の所属する真宗協会の龍口善海住職 Reverend Y. Tatsuguchi に 20 ドルのお布施を添えて「拝んで下さい」と送り届けた事に始まる。米軍はクワジェリンを日本侵攻の重要拠点とみなして全面攻撃を加え、日本の守備軍 7800 名は一週間の戦闘の末、 1944 年 2 月初めに全員玉砕した島である。届いた遺品は信徒みんなでお参りして法要をした後、このお寺の納骨堂に収められたが、これは日系二世の美談として「ハワイ報知」新聞の記事にもなった。 トニーの妻ジェシーは、トニーの死後も夫がミレー島で日本兵士からもらった日の丸の旗を持っていたが、 1957 年に JC Penny ロサンゼルス店への転勤になる時、「夫はクワジェリンでも通訳をしたことがありますから」と龍口師にお願いして預かってもらった。この旗は、復員船の氷川丸が日本へ出航する前に、日本海軍の下士官たちが日の丸に「砂本悟様 敗戦国の捕虜の我々を誠心誠意、人間として扱ってもらったことに感謝 1945 年 9 月 22 日」と堤一郎軍医など数人が血判血書のサインをしてトニーにくれたものだった。 1963 年 12 月、日本から萩原金次郎氏がホノルルへ金魚の展示会の審査員として来布した。彼の弟はクワジェリン島で戦死し、クワジェリン遺族会の会員である。たまたま真宗協会の遺品の事を聞いて、是非譲って欲しいとお願いした。全員玉砕であり、この島から遺品は何一つ日本にもどっていないので、靖国神社に納めるからとの求めに応じて、龍口師は全部の遺品を萩原氏に手渡したが、納骨堂にあったトニーの日の丸の旗も一緒に日本に行った。 このお寺の龍口住職の記録を見て、シャーリーに「旗を探しましょう」と話しかけたら、うれしそうにうなずいていた。デンバーに帰った彼女は早速ハワイの縁故やインターネットを通じて「旗探し」を始めたようだった。ハワイ大学図書館からハワイ報知新聞の日本語記事のコピーを送ってもらったと知らせてきた。 1963 年 12 月 11 日の新聞には、真宗協会で遺品の前に立つ萩原氏の写真と記事が出ている。彼女がもらった大学からの email の添付をよく見ると、遺品を乗せたテーブルに日の丸の旗が掛けてあるのが見えた。これこそトニーのもらった旗に違いないと思い、すぐにシャーリーに知らせた。 現代はコンピューターのインターネットの時代だ。人類の歴史に中でも「コンピューターとインターネット」は世紀の大発見だと将来評価されることだろう。旗を探す糸口をつかもうと思って、インターネットで調べれば何か糸口が見つかりそうな気がした。クワジェリン、マーシャル群島、日本遺族会名簿、金魚養魚などを検索したが、期待はずれだった。しかし、シャーリーの持っていた 9 月 22 日のビーチで撮った写真の中に堤軍医が入っていた事を思い出して「ミレー島」を開いて、ミレー島の遺骨収集に関する北陸新聞の記事を見つけてから、急転直下に動き出した。 石川県に住む坂本俊文さんの父親はミレー島で戦死したが、彼の「七回目の遺骨収集の旅」の新聞記事が出ていた。彼に Email して、「旗探し」に何かサジェッションやアドバイスをお願いしたら返事がすぐに来た。共に戦争の災禍を受けた者として、彼は「旗を探す彼女の気持ち」に特別な思いを持ったのか、彼から以後たびたび色々な情報が届いた。堤軍医は健在で大阪の警察病院に入院中、志賀大佐の娘・坂井和子さんが北海道札幌に居住、靖国神社の遊就館(資料収集館)の在庫資料を東京クワジェリン戦没者遺族会堤役員が調査中など矢継ぎ早の知らせがあった。靖国神社からは後日丁寧な報告もいただいた。事の成り行きは逐次シャーリーに伝えた。結局、旗の行方は分からなかったが、晴れやかな声で「皆さんの親切がうれしい。もう、見つからなくってもよい」といい、 Email で「最初は旗が戻ってきたらと思っていたが、もう探さない。父がもらったことは間違いがないと思うから」と言っている。 インターネットには、日本兵士のミレー島から日本へ帰国のことも出ていた。米軍の飛び石作戦のためにミレー島は本格的攻撃こそまぬがれたが、兵士たちは絶え間ない米軍機の爆撃を受けて苦悶の日々を送っていた。制空権も制海権もアメリカ側に帰し、補給路を絶たれていたので、医薬品欠乏の上に島はサンゴ礁のやせ地で農作物に不向きで食糧は欠乏し、極度の栄養失調で餓死寸前の病人が多かった。終戦の時、海軍の病院船だった氷川丸 (M.S. Hikawa Maru) は日本海側の舞鶴港に停泊していたが、ミレー島の日本兵士を迎えに行くように GHQ 連合軍最高司令部からの命をうけて、 9 月 15 日に旧日本兵引揚げ船として舞鶴を出航した。戦前、北米航路の横浜、シアトル間を航行する日本郵船の豪華船氷川丸は、戦時中は病院船となり沈没を免れた。戦いは終わったとはいえ機雷を避けて回り道をしての航海なので、ミレー沖に到着したのは 9 月 28 日だった。 ミレーの港は小さく、大型船舶の接岸する埠頭がなく、岸から 300 メートル位離れた、墜落米機の着水した辺りの沖合に停泊した。少しでも早く日本に帰らせようとの理由から、わずか一日の停泊中に乗船完了の必要があった。海軍の持っていたダイハツ (大阪発動機製造会社) の舟艇数隻が何度も氷川丸まで運んで、船から降ろしたタラップを登って乗船したが独力で上れない者が多くて、これでは時間が掛かるので元気な者は甲板から下がった網ネットをつかんでよじ登った。日本に着くまでに死亡するものが多いという情報があり、遺骨を入れる骨箱は舞鶴を出てから作り続け、甲板の煙突の横には遺体焼却炉が作られていた。船は 9 月 29 日に出港し、 10 月 6 日に浦賀に入港した。ミレーの守備隊は日米間で最初に降伏文書の締結された部隊で、外地から初めての復員だというので、地元の国防婦人会が旗を振って出迎えたというが、悲しい帰還だった。 志賀正成司令官の自害した日付もインターネットで知った。 1945 年 9 月 28 日、氷川丸がミレー島に入港したその日だった。近くのマジュロ島に判決を前に監禁されていたが、氷川丸の来たことを知り、部下の帰国が実現することを確認した上での覚悟の最後だった。自分は抑留の身で乗船できず、いずれは処刑される身であると観念しての自決である。1944 年 1 月クワジェリン攻略をした米軍は、日本本土を向けて一直線に飛び石作戦に出て、マリアナ群島のサイパン、グアム、テニアンを次々に攻略し、1945 年 3 月には日本領土の小笠原諸島の硫黄島(現東京都)を占領した。どの島も、日本軍は指揮官以下全員玉砕であり、海軍将校志賀大佐も覚悟を決めて三十二歳を一期に潔く亡くなっていったのだろう。シャーリーは、 9 月 22 日にトニーが 滝軍医や得能副司令官などと浜辺で写った写真を持っているが、トニーは氷川丸の出る 28 日もミレー島に居ただろうから、大佐の死はそこで聞いた。石川県の坂本さんによれば、日本の兵士たちは出航当日夜、氷川丸の船上でかつての自分たちの司令官の死を知らされた。 戦後、マッカーサー司令部の高官は「MIS 兵士の貢献で日米戦は二年早く終結した」と賞讃したが、戦時中には MIS はアメリカの秘密兵器であり外部には知られない陰の存在で、その存在や活動は厳重に秘密にされて、一切外部に公表されなかった。日系人社会でも同じで、 MIS 兵士の家族さえも MIS のことを口にしなかった。勝負の世界で、勝利を得る最良の作戦は「敵を知る」ことである。野球で相手のサインを見抜き、ポーカーゲームで相手の手の内を知ることができたら、どんなに有利なことだろう。日本軍の電文や文書の解読、捕虜尋問などによる MIS の情報収集面での活躍は、マッカーサー司令部が「この度の戦争ほど、敵の内情に通じた戦争はなかった」と言ったように、勝利に貢献した。しかし、このような軍部の評価と賞賛に反して、 MIS 兵士やその家族は戦時中のみならず戦後になっても堅く口をつむったままだった。 戦時中、軍部や MIS 兵士やその取り巻きの人達が、その存在を極秘の top secret トップシークレットにしていた理由は二つあったと思われる。まず、第一は軍事上の理由である。日本語の分かる情報兵を戦地に送っていることを日本側が知れば、それ以後は現在の得がたい情報源を失う可能性がある事と、日本側が逆手にとって発する策略戦術の「ニセ情報」に惑わされたり「落とし穴」にはまって大きな被害を受ける危険がある。この故に、 MIS の存在は「絶対極秘」にされなければならないものだった。日本の発する暗号通信は、開戦当時にはすでにほとんど解読されていた。 もう一つの理由は,MIS 自身の内面的なものではなかったのだろうか。 MIS 二世兵の多くは日本で教育を受けた帰米二世であり、当時の日本の軍国主義を反映した国粋主義教育を受けていた。その日本に鉄砲を向けることなど、想像さえもできないことだ。 MIS になったことを隠したいという気持ちが出るのは無理がない。親は日本から来ているし、日本にいる従兄弟と戦場で敵味方になったり、または自分の兄弟(日本へ勉強に行ってる時に徴兵になれば)と相対する可能性もある。後ろめたい思いはなくなって、気持の整理は付いたのだろうか。ミネソタの陸軍情報語学校の卒業者名簿をみると、英語のファーストネームを使っている人は少なく、殆どは日本名である。名前だけ見ても、帰米青年だと分かる。トニーもマーシャル群島では Tony だが、ミネソタで友人と撮った写真の裏の名前は Satoru としている。 重傷を負って気絶して捕虜になった日本兵が、通訳に出た二世 MIS (加州在住の私の知人) に向かって開口一番「貴様、裏切り者め」といったというが、この最大の軽蔑、最大の侮辱に対してどう対処したのだろうか。このような状況を想定して、七ヶ月間のミネソタでの陸軍情報語学校では、この問題に対処する道をどのように教えたのだろうか。日本古来の武士道からみて、敵方と通じることは卑怯な行為とみなされており、 MIS を日本人と判断した日本兵の驚きと「裏切り者」の表現は当然だったろう。 MIS 兵士の手記に「自分は手榴弾 2 個を常に用意して、一発は前方に投げ、最後の一発は捕虜になる前に自爆するため」といっているが、日本兵からみれば MIS 兵士は許すべからざる存在だった。日本兵の間では、捕虜になれば虐待された挙句に殺されると聞かされて、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えられていたが、二世兵も同じような思いを持っていたのだろうか。 真珠湾攻撃と殆んど時を同じくして、日本はアメリカの統治下にあったフィリピンを攻撃し、わずか一ヶ月後の 1942 年 1 月 2 日 には首都マニラを占領し、続いてバターン半島を制圧して 7 万人を捕虜とした。総司令官のマッカーサーはオーストラリアに退去し、残った 1 万 2 千のアメリカ兵はコレヒドール島に立てこもり、最後の抵抗をしたが 5 月 6 日に降伏した。その際の日本語による降伏勧告の無線放送、およびその後の日本側本間雅晴中将とアメリカ側ウエインライト将軍の降伏取り決め会談のアメリカ側通訳は、当時まだ 21 歳の日系二世サカキダ・リチャード軍曹だった。真珠湾攻撃より以前にアメリカの軍隊に入って比島に来た彼は、本来ならば日系兵士なので日米戦争が始まると同時に除隊になるか沿岸から奥地への配地換えとなるはずなのに、余りにも急な日本の進撃でサカキダはフィリピンに取り残されていた。そして、彼は銃を持って日本兵と撃ち合った唯一の二世となった。 1898 年(明治 31 年)にスペインの植民地のキューバをめぐって、米西戦争(Spanish American War)が始まり、四ヶ月にわたる戦いがキューバとスペインの植民地のフィリピンの二ヶ所で繰り広げられ、アメリカの圧倒的勝利の末、フィリピンはアメリカの統治になった。運悪く、サカキダはそのフィリピンに 1941 年 5 月からいて、思いがけない災難に遭遇した。捕虜収容所に入ったサカキダは、そこで他の兵士と別にされて日本の憲兵から虐待を受けた。この事は、国際赤十字を通じてアメリカ本土にも知らされていた。彼は両親の出身地、広島の戸籍に入った二重国籍者だったが、 21 歳 になる前に 1941 年 8 月に日本国籍離脱届けを出して米国々籍だけを持っていた。しかし、日本人の名前(サカキダモトソー)を持ち、日本人の顔をしているし、親が日本人だのに「けしからん」と、捕虜待遇に関するジュネーブ国際条約を無視するひどい取り扱いを受けた。その後、日本軍に利用されたと言う話もあるが、戦後の山下将軍などの戦犯裁判には再びアメリカ側の通訳として働いた。 1943 年(昭和 18 年)2 月、米国陸軍は二世部隊結成を決定して全米の日系人収容所で本格的に志願兵の募集を始めた。アイダホ州のミネドカ収容所は志願者数が全米の日系人収容所の中で一番多かった。トニーのアルバムには、呼びかけに応じて集まった若者数百人がバラックを背景に写したミネドカの決起大会の写真がある。トニーはここから志願して出所した。 1943 年 5 月 17日、ユタ州ソートレーク Salt Lake, Utah で登録して軍隊に入隊し、ただちにミシシッピー州のキャンプ・シェルビー兵営 Camp Shelby, Mississippi へ向かった。配属されたのは、出来たばかりの「442 部隊」 US Army 442nd Combat Team だった。442 部隊はやがてヨーロッパ戦線において赫々たる戦果を挙げる日系二世の戦闘部隊である。トニーはここで訓練を受ける事になった。 ブレマートンにあるキッツアップ郡立図書館員が親切に軍関係のネットで調べて、トニーは、キャンプ・シェルビーでの最初の配属は「442 部隊 Company H」と記されていると教えてくれた。プリントコピーを頼んだが、それは出来ないと断られた。しかし、どこかにこれ(ヨーロッパから太平洋戦線への変更)を記す記録がある事が分かった。 1918 年から 1931 年まで(3 歳から 16 歳まで) 13 年も日本で育ったトニーが、日本相手に戦うためのミネソタの訓練所行きを自分の意思で選ぶとは考えられない。ミネソタ行きは、外部から何らかの圧力が掛かったのではないかという疑惑を感じた。戦時中に 442 部隊の二世兵に対する誤解の解消のために作られた陸軍の内部通信文書を見ると、隊員は「日本に行った者はごく僅か」で、しかも「日本語をしゃべれない者が多い」と記されている。これでは、帰米二世は外されるのは当然で、この辺りに答があるのではないだろうか。もしも、そうだとすると、語学校開校初期には「帰米二世」が重要な選考条件だったと受け取れる。トニーが日本に行った後にアメリカで生まれた弟・カツミもミネドカから一緒に志願入隊したが、トニーだけミネソタに移された。 ミシシッピーで欧州戦線へ行く 442 部隊の一員として基礎訓練を受けつつあったのに、 1943 年 9 月ミネソタの情報訓練所に移されて 30 週間の特訓を受けたトニーは、 1944 年 3 月末から太平洋戦線に送られた。その頃、すでに戦争の体勢はアメリカが断然有利で、日本軍はニューギニア、ガダルカナルで敗退しマーシャル群島クワジェリンでは全滅(玉砕)して、勢いに乗るアメリカ軍は日本に向かって北進を続ける時だった。トニーはサイパン、グアム、硫黄島など西太平洋の各地へ転戦したのだろう。 (シャーリーは退役軍人の組織を通じて父親の歴戦場所を調べている。) MIS 情報兵は独自の二世部隊を編成したのではなくて、太平洋全域にわたり海兵隊の部隊に少数ずつ個々に配属されて、武器は持たずに情報関係の任務に服した。 訓練を終えた 442 部隊は 1944 年 4 月に、輸送船でアフリカ北部や地中海イタリアの海岸に上陸してヨーロッパ戦線に参入した。この頃、イタリアはすでに無条件降伏をしていたが、ドイツ軍が移動して駐留していたので戦いはドイツ軍相手だった。 1944 年 6 月にはフランスの大西洋ノーマンデー海岸にアメリカを中心とする連合軍が上陸し、ドイツに向かって進撃を始めた。デンバーとソートレークの日系新聞や収容所内の新聞は二世兵士のヨーロッパでの活躍を大きく書き立てた。アメリカの一般紙にも日系兵の活躍が掲載されて、日系人に対する世論を変えた。しかし、これに反して、同じ頃フィリピン、サイパン、硫黄島、沖縄などで戦っていた MIS 兵士の記事は、一般新聞も収容所の新聞もデンバー、ソートレークの日系紙も全くゼロである。 MIS は初めから終わりまで、そして戦争が終わってからもずっと「陽の当たらない影武者」の存在だった。 アメリカ政府の日系兵士太平洋戦線投入に踏み切った根拠はどこにあったのだろうか。私はその答えをアメリカ合衆国の建国の歴史に見つけることがでるように思う。コロンブスの渡航から百年あまり過ぎた 1600 年頃以後、ヨーロッパ諸国から多くの移民が大西洋を渡って新大陸アメリカに向かった。これらの初期移民は東部沿岸各地に住みつくが、イギリスからの移民が多く、移民社会では英語が彼等の日常語となるほどだった。島国イギリスの住民にとって、不便と危険はあっても土地が無償で手に入るアメリカは大きな魅力だった。やがて東部 13 州はイギリスの植民地となるが、母国の重商主義(経済的利益を中心)の政策に対する不満が高まり、植民地住民は遂にイギリスの支配を拒否してイギリスから独立する革命を起こし、アメリカ独立戦争 War of Independence - American Revolution に突入した。ジョージ・ワシントン George Washington を総指揮官にして祖国イギリスへの宣戦布告である。イギリスから派遣のイギリス正規軍に対する植民地軍の兵士の多くはイギリス生れやその末裔だった。戦いは 1775 年 4 月に始まり、翌年 1776 年 7 月 4 日に独立宣言書 Declaration of Independence を公布した。独立戦争は 1783 年に植民地軍の勝利に終わり、同年 9 月にパリで講和条約が締結された。初代大統領は独立戦争を勝利に導いたジョージ・ワシントンが選ばれた。アメリカ合衆国最初の国旗にある 13 個の星と 13 本の赤白の横縞は祖国イギリスと闘った 13 州を示している。(現在の国旗の星数は 50 、横縞数は 13) ジョージ・ワシントンはバージニア植民地で生まれたが、イギリス移民の後裔である。ワシントンの父親の祖父(John)は、 1656 年に{25 歳で}イギリス領のアメリカ・バージニアに移民してきた。ワシントンはイギリス移民の末裔でありながら、独立戦争では植民地軍の総司令官となり、イギリス系移民の末裔の兵を率いて、祖国に銃を向けることとなったが、「祖国の不義をただす」というのが大義名分であった。「建国の父」 Founding Fathers の一人で「独立宣言書」の草案起草者ベンジャミン・フランクリンもイギリス移民の子孫である。 1812 年に米英戦争が始まり、アメリカは再びイギリスと砲火を交えたが、アメリカ国歌 Star-Spangled Banner は、この戦いの最中、激戦の一夜が明けて丘の上になおもひるがえる星条旗をテーマにして出来ている。 独立戦争から 80 年ほど後に始まった南北戦争 Civil War は、4 年間の戦いで北軍 36 万人、南軍 25 万 8 千人、合計約 62 万人の戦死者を出す血みどろの大戦争だったが、これはアメリカ人同士の戦いだった。 War between brothers と呼ばれるほど、中には親子、兄弟が南北に分かれて戦った。第一次および第二次世界大戦では、多くのドイツ系アメリカ兵士はドイツ攻略のために完全武装で参戦した。この中には新しく移民してきたドイツ移民の二世も入っていた。このように、アメリカ歴史の観点からすると日系二世が日本に鉄砲を向ける事は、驚くような事ではなかった。 目を日本に向けると、明治時代までの日本の外国との争いは、鎌倉時代の蒙古襲来の元寇と豊臣秀吉の朝鮮進攻だけで、その他の数限りない戦さはすべて日本人同士の間だった。日本が東西に分かれた天下分け目の関が原の戦いをはじめ、主義の相違や利害関係が理由で大小の争いが繰り返されてきた。明治維新以来近代国家の仲間入りをした日本は、明治後期になると独裁主義の色彩が強くなり一直線に軍国主義国家にひた走りし、国民生活をおびやかし、対外的には朝鮮、満州、台湾、中国などへ侵略を続けて諸外国の反発を招いた。ミネソタでは、このような日本の体勢を指摘して、「日本歴史を通じて、日本人同士の争いは珍しい事ではなかった。しかも、二世はアメリカ人であるから、アメリカの情報兵になることは少しも不可解なことではない。ドイツを先祖に持つドイツ系兵士も、ドイツと戦っているではないか。現在の日本の間違った侵略主義を終わらせて生まれ変わった日本にするために、早く勝つように努力しよう」と MIS 兵士の教育をしたと想像できる。世界を視野に入れて考えると、アメリカの採った態度とそれを受け入れた日系 MIS 兵士の反応が理解できる。 アメリカは世界の国々からの移民の国である。故国を出て移民することは、これからはこの国に夢を託して忠誠を誓い、ここを自分の国とすることである。そして、愛国心も世代を重ねると共に強くなる。戦時中の日系二世の軍隊志願者が多かった背景には、彼ら自身の内に芽生えた愛国心と大きな関係があったにちがいない。 MIS 情報兵は戦場では情報関連担当の技術兵であり銃や武器を一切持たなかったので、日本軍に向かって直接攻撃することはなかったが、親が日本から来ているから日本との戦争には行くなというのは、一見マチガイでないよう見えるが必ずしも正しい答ではない。この問題は移民の持つ悲しい宿命としか云いようがない。日米友好を願うや切である。 志賀大佐の形見の軍刀はトニーの願いの通り、 1956 年春に遺族に渡された。 1953 年から一般人の日本旅行が可能になって初めて父親砂本与三が訪日した際に、交通公社のオフィスで手渡す砂本さんと受け取る妻の延夫人と長男正延君の写真が残っている。太平洋の小島で故郷や妻子を思いつつ亡くなった志賀司令官の遺族の気持ちを汲んで、トニーの死後、軍刀を記念品として保持せずに、遺族に届ける事に決めた妻ジェッシーと父親与三は立派だった。トニーの一人娘、シャーリーは日本に行きたいそうだ。札幌には志賀大佐の娘、大阪には父に旗を呉れた堤軍医が高齢だが健在だし、石川や東京には知人もいる。父親が見なかった新しい日本を見てきてほしい。 砂本悟トニーは帰米二世のたどった典型的な道を歩んだ。三才のとき広島に来て十三年間祖父母に育てられ、多感な少年時代を父母の愛情を肌に触れずに、アメリカに留まって帰国しない両親や後に生まれた兄弟たちと離れての日々を送った。 1928 年に生まれた国アメリカへ戻ってきたが、すべてが初めて見るような世界だった。世界的な大恐慌の前兆で不景気の上に、きつい日本人排斥の空気の中での暮らしはつらかった。帰米後十年、我慢と辛抱でようやくこれからの生活の踏み台ができた頃、不運にも彼の人生を大きく揺り動かす運命の日米戦争が始まった。 三十三歳の誕生日の一ヶ月前に亡くなったトニーの人生は、誠に短いものだった。しかし、 アイダホの収容所での陸軍志願以来、彼のたどった情報部隊 MIS 配属、太平洋戦線での任務遂行、ミレー島での軍使志願、旧日本軍兵士への対処などを振り返ってみる時、出てくる言葉は「He was great.」である。険しい人生の荒波を男らしく生きたトニーに、心からの敬意を表したい。 おわり www.isseipioneermuseum.com あとがき 長い間、私自身の宿題だった MIS (Military Intelligence Service) 二世情報兵の太平洋戦線従軍に関して、私なりの一応の「答」を出してみた。砂本トニーのように、ヨーロッパ戦線に行くと思っていた人も多かったと思うが、その辺りの事情は沈黙の多い MIS の事とて、深いベールに覆われてしまってきた感じがする。 2010 年 11 月に書いた「太平洋戦線の二世兵士 : 65 年前の夏の出来事 Nisei Soldier in the Pacific: Summer of 1945」で、砂本トニーの生い立ちからミレー島での志賀司令官との邂逅までを書いたが、このたびは日系二世の秘密部隊ともいえる情報兵としての太平洋戦線への参入と従軍を中心にした。 石川県の坂本俊文氏より、志賀司令官、ミレー島、復員船氷川丸などに関する色々な情報の提供を受けた。 1943 年 2 月アメリカ政府の日系志願兵募集の際に「アメリカ国民の義務である兵役権利は、国民すべてに共通であり強制立ち退きに関係なし」と日系人にとっては複雑な通告を出したが、アメリカの建国精神から見ると間違ったことではなかった。だからこそ、真珠湾攻撃直後、アメリカの若者がなだれを打って軍隊に志願したように、日系青年も胸中の愛国心を掻き立てられてか収容所からも多数志願した。この愛国心と共にもう一つの理由は、アメリカに忠誠を誓って志願することにより、親兄弟やひいては日系人すべてが現在の抑圧された状態から早期に解放されるようにという義侠心だった。 ゴールデンゲート・ブリッジのふもとに 1941 年 11 月 1 日に開校したカリフォルニア・サンフランシスコの Presidio of San Francisco 及び 1942 年 5 月 25 日開校のミネソタの Camp Savage と 1944 年 8 月 15 日開校の Camp Snelling で訓練を受けた日系二世は 6000 名を越える。しかし、 1944 年 12 月以降に入学した約 3400 名 は、卒業の時期に戦争が終結していたので戦地に出ず、それを差し引くと 2600 名が MIS 兵として太平洋前線に出征したことになる。 中国やその他のアジア諸国の権益をめぐって、 1930 年代初頭より日本と外交上の衝突を生じていたアメリカは、次第に日本を仮装敵国とみなして日米戦争を予期して、真珠湾攻撃の一ヶ月前に情報作戦のために Presidio of San Francisco に The Fourth Army Intelligence School 第四軍情報学校を開いた。第一期生 60 名が入校し、そのうち 58 名が二世だった。開戦となり、 1942 年春には最初の情報兵 35 名が南太平洋に送られ、 8 月には激戦地ガダルカナルに送られた。ここでの MIS の活躍は、軍部にその価値を認識させて、二世の軍隊入隊志願者募集に拍車を掛けた。 サンフランシスコの情報兵養成所よりも早く、規模は小さいがハワイのホノルルには、日米関係の悪化を背景に二つの機関 Corps of Intelligence Police (CIP) 情報警察 と Counter Intelligence Corps (CIC) 諜報隊ができて、日本語の出来る二世の青年を集めていた。そして、 1941 年 12 月の開戦当時には、日本海軍の暗号解読に成功していた。 ミネソタに移ってから、 MIS 訓練生の数は雪だるま式に増大するが、驚く事は日本の敗戦が色濃くなった 1944 年 12 月頃 から入校者が多くなり、 1945 月 8 月までに合計 2200 名が入校している。日本本土への上陸総攻撃を視野に入れての事だったのだろうか。戦争終結後、その多くは進駐軍として日本に進駐した。戦争が終わっても語学校は閉校せず、 1945 年 9 月から翌年 1946 年 6 月にカリフォルニア州モントレーに移転閉鎖までに更に約 1400 名が訓練を受けて、戦災からの復興と民主主義に基づいた新日本建設のために日本に送られて、農地改革、財閥解体、公職追放と総選挙制度、 6-4-4 教育制度など明治維新を上回る昭和維新に持ち前の日本語を生かして通訳として側面から貢献した。 終戦後、米軍はただちに日本本土各地へ進駐を始めた。私の育った滋賀県の田舎(犬上郡多賀町久徳)にも進駐軍が来て、廃校になっていた昔の小学校(久徳小学校)に駐留したのを憶えている。ハント少将 Commanding General, Major General LeRoy Hunt, U.S.M.C. の率いる海兵隊第二師団 2nd Marine Corps Division F.M.F. は、サイパンから 9 月 23 日長崎佐世保に上陸したが、この部隊の半年の長崎進駐記念誌 (アンティーク・ショーで購入) を見ると「11 月 1 日に日本侵攻の際の敵前上陸予定地」だったという説明付きの鹿児島県西南部海岸の写真も入っている。戦争が長引いていたら、本土の各地も沖縄の二の舞になったと思うと恐ろしい。アルバムの原爆の被害を受けた長崎市街地の惨状は痛ましい。 Presidio of Monterey に移った MISLS は Fisherman's Wharf を見下ろす丘の斜面に建てられ、校名は Army Language School 陸軍語学校と変わった。当初は日本進駐のための二世兵の養成だったが、翌年の 1947 年頃 からは共産主義圏との Cold War 冷戦時代の影響を受けて、ロシア語、ドイツ語、韓国語、中国語が主流となり、生徒の構成もすっかり変わった。現在は Defense Language Institute / Foreign Language Center 国防省管轄外国語センターとして知られている。 戦争における諜報戦は砲火を交わす実戦に劣らぬ重要なものである。この度の日米戦争におけるミッドウエー海戦の実例を見れば明らかだ。開戦以来連勝続きの日本が、長期戦は避けて勝負を早く決めようと、 1942 年 6 月にミッドウエー島〈ハワイ列島の西北端に位置する島〉を占領しようと計画した作戦は、アメリカの「待ち伏せ」に遭遇して敗北し、太平洋艦隊 (山本五十六司令長官指揮) は飛竜など空母四隻をふくむ多くの艦船を失って壊滅的損害を受け、このミッドウエー海戦を境にして、このたびの戦争の風向きは大きく変わった。日本の暗号を解読して日本の策戦を未然に知ったアメリカは、島の飛行場に戦闘機の増強や近辺に空母を派遣するなどして、日本の攻撃を待ち伏せして一方的な勝利を得た。ミッドウエー島占領の次は十月にハワイ上陸を計画していたのだが、日本は戦う前の情報戦で破れて、これから後は守勢一辺倒になり、ひいては敗北への一路をたどった。 MIS 兵士が使った多くの教科書テキストや参考書(San Francisco, Minnesota, Monterey の 3 箇所 で使用)は当資料館に展示している。その殆どは日本で出版された書物を、戦時中にアメリカが写真複写印刷した無断印刷物だが、こんな違反は戦時中のことだから許されるのだろうか。それにしても、日本では敵国語の英語を軽視して遠ざかった時代に、日本のことに注意を向けたアメリカの焦点の当て方に驚かされる。関連資料の中には山崎豊子著「二つの祖国」の主人公・天羽賢治のモデルになった日系二世・伊丹明の MISLS 教官時代の写真もある。「二つの祖国」は後に NHK により「山河燃ゆ」のタイトルで、大河ドラマとして毎週日曜夜に 51 回、一年にわたって TV 放映され、日系人歴史の紹介にもなった。収蔵している資料の中でも、 MISLS が 1946 年に刊行出版した記念誌「The MISLS Album」 (136 ページ) は、沿革史や入校生全員の氏名も入った貴重なものである。 MIS 情報兵は銃を持たず、銃を持った二世部隊の 442 部隊 は欧州から太平洋戦線には転戦せず、この度の第二次世界大戦で日本本土を直接攻撃した二世は、 Ben Kuroki (黒木ベン) 軍曹ただ一人だった。彼はドイツ降伏後、 B-29 に搭乗してテニヤン島から 28 回日本爆撃に出撃している。(欧州では B-24 で 30 回出撃) 祖父 (夏原千代吉) の新聞記事切り抜きのスクラップブックに黒木の記事がある。 1943 年 11 月にヨーロッパからヒーローとして帰り、各地でスピーチを依頼されたが、 1944 年 2 月 4 日北部カリフォルニアの名士の集うサンフランシスコの Commonwealth Club 6 で、今も残るアメリカ社会の日系人に対する排斥を激しく非難した時の記事である。スピーチが終わり、会衆総立ちで拍手は 10 分近く続いた。 Time Magazine 1944 年 2 月 7 日号 に、彼は American war hero と賞賛されている。その後、彼は太平洋戦線への参戦を政府に願い出るが最初は許されなかった。しかし、桑港でスピーチを聞いた SF クロニクル紙主筆、加州大学副学長、スタンフォード大学々長の三氏や彼の郷里ネブラスカ州選出の上院議員 Carl Curtis などの後押しにより、 1944 年 11 月に空軍に入隊を許可されて B-29 に gunner として搭乗することになった。トニーのアルバム最後のページに、 Ben Kuroki の写真があったのを思い出した。二人はテニヤン島で会ったのだろうか。いつかトニーとの関係をシャーリーに聞いてみたい。 おわり 竹村義明 www.isseipioneermuseum.com |
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一世パイオニア資料館 - isseipioneermuseum.com - 2011
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