カリフォルニアのシエラネバダ山脈麓のスコアバレーで第八回冬季オリンピックが開かれたのは1960年で丁度五十年前のことです。当時サクラメント郊外のフローリンにいた私は新しく出来たインターステート80のフリーウエーを東へ百マイルほどドライブして観に行った。チケットは入り口ですぐ買えた。日本からはスキーとアイスホッケーチームの選手四十名ほどが参加し、世界の三十カ国から選手六百六十人余りが参加した。昭和三十五年の日本は漸く戦後の復興が終わり、まさに高度成長期に入ろうとしていた時代だったが、まだそれほど生活に余裕は無く、しかも外貨のドル持ち出し制限があって日本からツアーで来る人などはなかった。もちろん、中国や韓国は選手も送らなかった。スキージャンプを見た後、キャフテリアに来ると日本人が珍しかったのか選手と間違えられたのか、サイン攻めに合った。女の子からはスーベニアだといってコインなどもらった。日本の成績はただ一人複合スキーで六位が最高だった。まだ冷戦の時代で、ソ連がスポーツで国威を誇示せんとしていたので圧倒的に強かった。
第二十一回冬季オリンピックの開会式が二月十二日、バンクーバーの B.C. プレースで行われた。幸いチケットが手に入ったので観に行った。歌詞もリズムも穏やかで荘重な感じのするカナダ国歌「おお カナダ」で始まった開会式は、オリンピック史上初めて屋内で行われるとのこともあり、カナダの威信をかけて準備したものであり、ハイテクを駆使し趣向を凝らしたプログラムは時間の経つのを忘れさせた。満席の六万人の大観衆を前に、いとも厳粛にしかも敏速に進行した。司会は英仏両語が使われた。独立国家となってから歴史の浅いカナダが、過去を大事にして先住民の文化を尊重してプログラムを組んだ姿勢に敬意を表します。二千五百人余の各国選手の入場の際に先住民の子孫達は、それぞれの先祖伝来の色あでやかな部族衣装を身につけて、その間ずっと踊り続けたが、その彼等の姿の中に長い間見過ごされてきた彼等の先祖の歴史に対する誇りと喜び、そしてこれを認めてくれる今のカナダに対する感謝の気持を感じ取りました。栄光あれ 新しい国、自由の国、伸びゆく国 カナダ。
スコアバレーの時より参加国は何と四十八カ国増えて七十八カ国、競技の種目も二十七種目から五十九種目増えて八十六種目、選手数も二千人ほど増えていました。観客は勿論カナダ人がほとんどでしようが、私の席の前や横には中国や日本からのツアーグループも来ていました。全く隔世の感がしました。やはり、日本とアメリカの両国選手入場にはこみ上げるものがありました。日本の選手は九十四名が参加、アメリカは二百十六名の大軍団でした。チケットを手配してもらった日本オリンピック委員会専務理事でこの大会の本部長・市原則之氏のオフィスには日本選手の成績を書き入れる大きな掲示板がかかっているが、選手各位の健闘を祈る。行進する選手を見ながら「参加することに意義がある」といった近代オリンピックの父、クーベルタン卿の言葉を思い出しました。
席に着いた時、シーツにあった八角形のきれいな箱を「これはきっと、チケットが高いから、気が利いて手土産まで用意して下さって」と思ったのは早合点。その箱はドラムになり応援太鼓(そういえば昔の日本の電電太鼓にそっくり)と反射板になり、中に入っている白衣は着用すれば電光で様々の模様を映し出すスクリーンになり、二種のフラッシュライトはボランテアガールの指図で点滅さすものだった。それだけではない。号令による「ワー」という掛け声もあった。あれほどの人だのに、みんながとても協力的だったのには驚いた。「お父さんが買ってくれたから来た」という隣に座ったビクトリアからフェリーで来た十四歳の少年は、雰囲気を盛り上げるために取り入れた観客動員のアイデアにすっかりのめり込んで、最後まで興奮していた。
開会式の終わりは聖火点灯。車椅子で入ってきた聖火はカナダのスポーツ界のヒーロー四人に次々に移され、この四人により遂に中央の大聖火台に点火されました。帰り際にこの聖火をバックに写真を撮ったとき、妻が「ついでに火が消えたところも撮りたいから、もうしばらく待ちましょう」と言う。しばらくして、消えるのは十六日後だと気が付き、軽い財布と足取りでスタジアムを出て帰途についた。駐車しているウエストミニスターまで行くため、スカイツレインの乗車駅まで雨の中を人ごみにもまれながら歩いたが、どの顔にも満足した表情があふれていました。多くの深い印象を与えてくれた開会式よ、ありがとう。
お わ り
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