Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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  物語 - 一世関係
62 - メキシコからアメリカ xxxx                 不審に思うこと  竹村義明
 
             
 

  メキシコからアメリカへ   匿名   XXXXXX


アメリカへの移民が難しく、行きたい人は仮船員に化けて太平洋を渡り、アメリカの港で海に飛び込む時代です。私は旅券が容易にもらえるメキシコへ行って。そこからアメリカへ入る話を聞いて、アメリカに來ました。

次男として生まれた私は十八になった時、両親に「アメリカに行きたい。」と頼みました。母は即座に賛成してくれましたが、父は私をまだ子供と思ったのか、「考えておく」といっただけでした。二三日してから母は「お父さんも賛成だけども、なんといっても大金が要るから、その工面をしておられるのよ」と話しました。それから三四日して、父が「本当にお前はアメリカに行く度胸があるのか」と聴いた時、「どうしても行きたいからお願いです」と言ったら,「よし、それなら行け。二百五十円こしらえてやる」と言ってくれました。出発が迫って、父は「二百円しか出来ない」と困っていましたが、母は其の翌朝早くから外出して夕刻に戻り、「これは私の餞別です」と二十円を私の膝の上に置きました。母がどこで工面したのか、私にはよく判っていました。

明治三十九年(1906)と言ば、横浜や神戸にはハワイやアメリカに出稼ぎに行きたい人がわんさと押しかけてチャンスをつかもうという時期なので、考え抜いた末に私はメキシコ行きときめました。というのは、メキシコを経てアメリカへ行くことが一番手っ取り早いことを耳にしたからです。

その年、明治三十九年、一九〇六年十月二十五日、神戸出帆、十二月一日メキシコのマンサニヨに上陸しました。一行六人はそこから汽車でアメリカ国境近くまで行くつもりでしたが、運悪く洪水による線路流失の被害の為に汽車はなく、六十マイル(約100キロ)の山道を歩かなければなりませんでした。何日も山の中や野原に寝たり、農家の世話になったり、とても苦労して漸くコリマ市郊外まで来ましたが、私はここで発病しました。

丁度そこを通りかかったメキシコ人が、すぐ馬に乗って走り去りましたが、間もなく荷馬車を連れてきて私ら六人を乗せて大きな農場に入り、働き人の住む大きな長屋に入れてくれました。土間でしたが枯草を沢山運んでくれて温かい寝床を作ってくれました。私の病気は下痢でした。メキシコ中部は十二月でも暖かくて急いで歩くと夏のように喉が渇くので、野生のレモンに砂糖を入れた水を沢山飲んだのがいけなかったのです。

猛烈な下痢で体は弱るばかり。そこの主人が医者を呼んでくれ、毎日二三度診に来てくれて薬もくれましたが悪化するばかり。四日目の夜、腹に何もありませんから下痢は止まっていましたが、苦しくてたまらず「今夜はここで死ぬだろう」と覚悟しました。すこし経って「xxxx、xxxx」と誰かが私を呼んでるらしく感じたので、目を開けると、医者は十字架を持って私の手を握りお祈りをしていました。友達等は皆、私の枕辺に座っていました。有難いことに夜が明けた翌朝、私の痛みは去って生き延びたのです。「助かったのではなく、助けられたので」と思った時、心は感謝で一杯でした。それから、だんだんと順調に回復が進みました。主人の夫人はスープ、ミルク、卵、そのほか数々のメキシコ料理を作って下さり、日に日に元気になりました。

一日も早くアメリカに入ることが目的ですから、まだ無理かと思いましたが 友達にも済まないので。この家に世話になって丁度二週間して出発を決心しました。主人の家に行って、お礼にと米金十ドルを差出しました。「ありがとう」と言って受け取るや、すぐに返されてどうしても受け取ってもらえませんでした。私たちは相談して、所持している日本の物、銀貨、手ぬぐい、扇子。絵葉書などを置き土産として差し上げました。皆さん大喜びでしたが、一番喜ばれたのは日の丸の扇子で、すぐに壁に飾られました。

最後のお別れに行った時。家族一同の前でフロア(床)に両手をついてサンキューと頭を下げました。すると、家の人は私をかかえて椅子に座らせて「そんなことをするな」という意味らしく、幾度も手を横振りされました。この農場の主人は、六尺豊かな腹の出っ張ったメキシコ人としては大男で、農場には百人以上の使用人がいました。「人情に国境はない」とよく聞きますが、彼のような方を言ったものだと思います。

ようやくコリマから汽車に乗り、一千百マイルの長旅(日本なら青森から鹿児島1760キロ)が始まりました。メキシコの汽車はスピードが遅く、おまけに夜中は動きませんので、国境を越えてテキサス州エルパソに着いたのは十二月二十三日です。そして、アメリカの移民局に収容されました。これまでにいろいろ費用がかさんだので、その時私の所持金は十ドルほどしか残っていませんでした。為替相場は一ドルに対して二円ですから、翌日いろんな手続きをすませて、最後に二ドルの入国税を納めて米国永住を許可されました。

母からもらった二十円がなかったら入国できなかったと礼状を書いて、無事に着いたことを知らせました。、、、、、、、


お わ り


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  不審に思う事              竹村義明


これは、アメリカへの海外出稼ぎ労働者として、明治年間に海を渡った日系一世の「思い出」の一文です。故郷を離れて船に乗るまでの父母との会話及びメキシコ到着してからメキシコ人の厚い人情に恵まれて無事にアメリカに入ったことが温かい筆致で書かれている貴重なものです。

パスポート出願者が多くて正規の方法では行けないので、出稼ぎ全盛時代には一世の半数は密航者だといわれていました。仮船員(にわか船員)、船員との密約乗り込み、カナダ|メキシコからの陸伝いの密入国などその手段は各種雑多です。この文の著者が、アメリカ密航者かどうかははっきりわかりませんが、その可能性が強いのでお名前は控えさしてもらいます。明治三十九年(1906)といえば、アメリカ移民を制限する紳士協定のできる前年ですから、アメリカに行きたい日本人は特に多かったことでしょう。当時の日米間の移民状況を考えると、この「思い出」の一文はアメリカ密入国をした人が書かれたに違いないと思います。以下に、なぜそのように思うかを記してみたいと思います。

パスポートを持っていたのか、いなかったのかに関しての記入がない。海外に行く場合、大事なことは渡航費とパスポート旅券なのに、旅券をもらうまでの苦労と辛抱が書かれていない。また。出発前の家族、下痢看病家族の記述はあるが、乗船した船名、船賃、航行中の船内生活、汽車の旅の記述がない。

日本を出る前に、アメリカ入国を、メキシコ領から入る要領を教えてもらって知っている感が強い。だから、マンサニヨ上陸後、遠いテキサス州エルパソをめざした。マンサニヨ港からアメリカへの近道は、日系人の多い南カリフォルニア、サンディエゴを目指して北上することだが、この一行はサンディエゴをめざさずに、サンディエゴから八百マイル(1300キロ 東京ー鹿児島の距離1300キロ)も東のテキサス州エルパソに向かった。テキサスはカリフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコの三州の向こうにあり、日本人一世の住みつく所ではなかった。

一行六名のアメリカ密入国は確実だが、メキシコ密航、密入国の可能性も強い。この一文のような情報が流れると、1908年の紳士協定以後はもっとアメリカ行き密航が増えたにちがいない。各自持参の二百五十円の使い道、何に費ったのか記入はないが想像はできる。因みに、当時のメキシコ行き船賃は神戸乗船 一等 四百七十円、三等 百三十円、移民 百四円。日本を出てメキシコに着くまでの所要日数:日本郵船中型船三十五日、大型船三十日、寄港地:横浜、ホノルル、ヒロ、サンフランシスコ、サンピドロ〈羅府)、終着マンサニヨ。

メキシコ北部又はアメリカ国境に近い町がメキシコでの目的地の場合、神戸か横浜の領事館で申し出れば羅府サンピードロ港で下船してメキシコへ入る許可証をもらうことが出来た。それを持たない人も、サンピードロ港でも申し込みが可能であった。しかし、そこでは下船せず、北海道から鹿児島の距離のある遠い南の港マンサニヨまで行った。パスポート記入の目的地がメキシコ北部であれば、わざわざマンサニヨまで行く必要はなかった。

アメリカの移民局で二ドルの入国税を払っただけで、入国許可永住権が取得できるのだろうか。多分印刷のまちがいでしょう。また、メキシコからテキサス州エルパソに入る前後の記述はないので分からないが、記述のごとく汽車で簡単にアメリカに入れたのか、疑問が残る。

サンマ二ヨ港で下りて、コリマまで歩いたが、言葉は分からず道不案内の密航者六人は国道は歩けないので田舎道を行ったので、汽車で一日のところを何日もかかったのでしょう。

横浜から出たといわずに神戸から出たということ。関西、四国、または九州出身。同村の若者六人の出稼ぎ目的の渡航の気配が濃厚。「一緒に行こう」と話がまとまったのでしょう。 大金の要る、知らない他国への危険を犯しての海外渡航、その原因は一体何だったのでしょうか。農村の貧困、「金のなる木のあるアメリカ」-世間のうわさ、日本の家族制度の長男相続、海外の情報の誘惑、、、、、、、など?。 


お わ り




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