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物語 - 一世関係 55 - 西洋に行ってみたかった 小林まさ |
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須らくみんな反対したけど、私は西洋に行ってみたかった 加州ワッソンビル 小林まさ
小林まささんは1893年(明治16年)茨城県下妻で生まれた。高等小学校(八年)を卒業して、父親の手伝いをしていた。 「夫の小林がアメリカに来たのは1906年(明治39年)で、サンフランシスコ大地震の年でした。そして、1916年(大正5年)五月に一帰国し、その時私に話があったのです。私がアメリカへ来たのはその年の十一月。いろんな支度もありましたし、とにかく親も大反対でした。「アメリカへ行っても何もできやしない。アメリカってとこは働くとこよ」って、従姉妹たちも云いました。わたしはむつかしいことは何もわからず、ただ西洋というところへ行ってみたという気持ちだけでまいりました。父親の関係で小林の家のことはよく知ってましたから信用していましたが、深いことは何も考えずに来たんです。」 「小林はメキシコ国境に近いインペリアルバレーで百姓をしていました。横浜から天洋丸に乗船しました。「大変なところへ行くんだってね」とみんなに云われましたよ。十七日かかってサンフランシスコに着きました。小林は迎えに来ていました。 インペリアルバレーでは百六十エーカーをレント(借地)してキャンテロープを作っていました。小林は三十歳。留学目的の旅券で渡米して来たのです。シアトルで学校に行こうと日本からの送金を待っていましたが、いつまでたっても来ないので働きはじめたらしいです。そのころ盛んだった鉄道ギャング(鉄道工夫)をやったり、なんでもずいぶん苦労したと聞いています。そして、親戚の人たちや友だちといっしょにインペリアルバレーに入り、百姓をはじめたのです。ある時はパートナーと、ある時は一人でやっていました。 私も、そこに六年いました。毎年、損ばかり。それに暑いでしょう。子どもも三人になりましたし、女は何も仕事もなくてただ家事だけでしたが、あんまり暑いし、仕事の良い見込みもなかったから、ちょっとでも涼しいところへ行こうということになって探しました、最後にミセス森をたよって移ることにしたのです。ミセスは天洋丸で一緒の人でワッソンビル(註::モントレーの北の町)にお住みでした。」 「あっちこっち転々としましたよ。バークレーとかサンフランシスコと。でも、子どもを家において仕事に行くのもハードだし、でも仕事をしなければ食べていけないし、と。 で、やっぱり田舎がいい、自由があるって、それでワッソンビルに来たのです。ここが一番いいですよ。 インペリアルバレーでは掘っ立て小屋の家に住み、ほとんど毎年移動していましたし、水道なんかももちろんありません。「さんきろ」といって水番が毎朝五人でやってきて、ゲートを開けて、うちの飲み水のプール【水槽】と馬の飲み水のプールに入れてくれるのをバケツで汲むんです。畑への水引きもそれでやります。飲み水は毎日四十杯、バケツで汲んでフィルターで漉していました。フィルターには泥がいいぱい溜まりましたよ。水はコロラドリバー(コロラド河)からのものでした。近所の人もすくなく、本当にさびしいところでした。仕事は広くやらないと会社からお金も借りられないからだめですよ。何もかもアフタークラップ(収穫後支払い)で買い物をしていましたから。いつも会社に借金していました。仕事もうまくいかず、みんな駄目でしたね。 ミセス森が「ストロベリーをやったら」といわれたのでストロベリーのシェア (歩合栽培)から始めました。それ以来ストロベリーをやっています。子どもが生まれたのは南加ですが、育ったのはワッソンビルです。長男は1918年1月、次男は1919年、三男は1921年の生まれです。みんな小さい時から畑を手伝ってくれました。初めの頃の二世は一世と同じで、ずいぶん苦労しました。 イチゴ畑は二、三エーカーーでどのくらい収入があったのかよくわからりませんが、生活には困りませんでした。市民権のない者は土地購入や借地もできなかったのですが、ワッソンビルに来てから志熊さんのお世話で長男の息子さんの名前をかりて畑を借ることができ、戦争で立ち退くまで十年間いました。1929、1930年という不況時代も志熊さんのおかげでやってこれたのです。 戦争がはじまり、ほとんどのワッソンビルの人たちは1942年春にサリナスにできたアセンブリーセンターに入り、その後アリゾナ州の日系人収容所に入りましたが、私の家族は自由立ち退きを選んで、収容所に入らずにユタ州へ行きました。砂糖会社がシュガービーツ(砂糖大根)を作る人手が不足しているというので、日本人を募集したのでお友達三家族と汽車でユタに行き、初めは立ち退き者用のキャンプに住みました。それから、田浦さんの農園で働きましたが、たいへんよくしてもらいました。 戦争がおわって、しばらくコロラドに出ましたが、1946年に加州に帰りワッソンビルの北隣アロマスの山崎さん宅に間借りで入ったのです。その後しばらくして、志熊さんがドイツ人で「日本人は立ち退かされて気の毒だ」と同情してくれる人の空き家を紹介してもらいました。小林は毎年くれ(暮)になると、胃潰瘍になり仕事ができないのでレントの支払いができず、志熊さんに保証人になってもらって待ってもらいました。 アメリカ生活はきびしい農作業の日々でしたが、やさしい夫に出会い、多くの良き隣人に助けられて、バイブルを片手に生きてきました。」 「一世史」 より転載 「一世史」米国日語協会 編纂委員会編 1986年12月出版
一世パイオニア資料館
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一世パイオニア資料館 - isseipioneermuseum.com - 2015 |