Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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  物語 - 一世関係
54 - 日米戦争直前直後のシアトル 町田 保
 
             
 

日米戦争直前直後のシアトル教会


    前 シアトル日本人メソジスト教会牧師  羅府    町田 保

暗雲太平洋を圧し、支那揚子江に停泊していた米艦ハネイ号事件から日米国交は悪化の一路を辿るのみであった。丁度その頃、一九四一年七月上旬に私は加州オックスナード美以教会からシアトル教会へ家族と共に転任して、佐藤、下村、菅原諸兄姉方に迎えられてスプル-ス街の牧師館に落ちついたのであった。

やがて教会の礼拝や祈祷会に出席するようになった時、会員は異口同音に日米国交の平常化を祈り、両国為政者の処置よろしきを祈ったのであった。そのうちに、日本向けのエンバーゴー(禁輸)問題は益々厳しくなり、ABCD(米英中蘭)諸国は日本を孤立させてしまった。一九四一年十月頃シアトルから日本へ向かって最後の船氷川丸がクローレー九十一より出航することになり、異様な緊張裏に雨の降る中に波止場へ見送りに行ったことは、今も鮮やかに記憶に残っている。

お正月も近くなった十二月七日、婦人会は口とりの料理講習で、四五十人の会員が階下の社交室で余念なかった三時頃、下村夫人があわただしく入って来られて、「日本軍がハワイへ攻めて来たようです。ラジオが何だか変な事云ってます。」と告げて下さった。然しそれが一体どういうことか誰にも分からなかった。とにかく、講習は中止して皆を帰宅させてから、牧師館へ帰ってラジオをひねって聞いてみた。正しく日本飛行爆撃隊がパール・ハーバーを襲って米国太平洋艦隊オクラホマ、アリゾナ、ウエストバージニヤ、カリフォルニヤ等の戦艦を初め、多くの巡洋艦を沈没させたとの、けたたましいニュースの繰り返しであった。

さあ来るものが来たかと思いつつ、さてこれからどうなるかと不安の念にとざされながら、「信仰に生きて、行く所まで行こう」と決心を立てたのであった。するとその晩からカーヒュー・ローが発布されて、これからは外出も旅行もこの禁人足令に従うより外なかった。然し、教会の礼拝だけは守ってもよいとの事であったので、立ち退き令が励行されるまで続けた。そのうちに教会会員の有力者がFBIに逮捕されて抑留所に連行されるようになった。然し、反対に礼拝出席者は増加して百二十人を超えた。おびえながら生活している一般人が、教会に入会すれば安心できると感じたからであった。

私と巡回宣教師タムソン師は、禁足令が出た後は教会から米、醤油、野菜類を買って、FBIに主人をアレストされて主人不在家族の慰問に専念した。今でも、あの時助けてもらって有難かったと昔話をする人に時々会う。本当にかかる時にこそ、教会は強く立って社会を指導し、流言蜚語に打ち勝って進むべきことを示さねばならぬ使命観に立った訳であった。

翌年二月になり、西部沿岸司令官デウイット中将の指令によりワシントン、オレゴン、加州三州は第四戦闘区域とされて敵国外人なる日本人は戦争の邪魔になるから何処かへ移動させねばならぬということになった。首府ワシントンの連邦議会は、トーラン下院議員を委員長にして特別委員会を作り日本人立ち退きに関する公聴会を開いて沿岸各地の実情を調査した。トーラン委員会はサンフランシスコ、ポートランドに続いて、シアトルでも公聴会を開いた。シアトルは市長をはじめ有力者や牧師など四五十人が集められて、その数約十一万人の日本人立ち退きの必要ありや否やについて討論が開始された。加州オークランド選出の委員長は日本人には理解の深い人であったが、大部分の出席者は日本軍が上陸して来る不安の中で、在米日本人に危害が加えられる恐れありとの見地に立って、この際日本人保護の建前から立ち退きの必要ありと判断して賛意を表明した。

然るに、当時シアトル第三十一メソジスト教会牧師ハーラン・ストーン師は「日本はキリスト教国ではないが、アメリカは伝統的にキリスト教国だ。‘人若し右の頬を打たば左の頬をも打たせよ’と教えられているのに、何故これを実行せぬか。日本人立ち退きの必要を認めない」と怒号した。北米日本人美以教会総理スミス博士と下院議員トーラン氏はカンサス大学の同窓であった故に、特に私は出席を許られて同席していた。しかし、その後この正義の士ストーン師は、三一教会には擬似非信者が多かったのか、そこを解雇されてしまった。

その頃は万事が悪い方ヘと進行し、とうとう日本人立ち退き令が布告され、日本人はその子孫も含みことごとく転住所への立ち退きを余儀なくされてしまったのである。米国生まれの日系市民は公判なしに転住所に投げ入れられるのは憲法違反であるに係わらず、若年者の多い彼らは親から離れて生活できないという見解から転住所へ入れられた訳であった。

従って、教会も一九四二年五月十日、母の日礼拝を最後に閉鎖。会員の家財道具は、英語部受持のバンデー牧師、ブレーン氏、モーフォード夫人等に依頼して教会に保管してもらい立ち退いた。そして、ブレーン・ホーム付近から手荷物をかかえて迎へに来たグレーハウンド・バスに乗り、ピャーロップの仮収容所に送られた。ここは、毎年秋に開かれるキング郡のフェアグラウンド共進所敷地内にあった。そして、その年の九月初め、新しく建てられたアイダホ州ミネドカの転住所に逐次移された。


ミネドカ転住所

アイダホ州ツイン・フォールスの二十五マイルばかり北方 のセイジラッシの生い茂る曠野にスネーク・リバー川に沿って建てられた四十五ブロックに亘るキャンプに、シアトルおよび央州ポートランド一帯からの戦時立ち退き日本人一世と二世が収容された。その数一万人以上に達した。

転住所では出来る限り自給自足の生活をするように、各人の才能に応じてそれぞれ仕事を与えられる事になった。私は高校の先生をせよと校長ライト氏の依頼を受けて米国歴史と英語クラスを受け持った。夜は祈祷会や聖書研究会、日曜は日曜礼拝、そのほか種々の相談事、結婚式、葬儀などで多忙な生活だった。最初はすさんだ生活を余儀なくさせられていると思っていたが、今になってみれば実に印象深い画期的な時代であったと色々の思いにふける。

一九四三年春になると政府の方針がかわってきて、政府の勧誘員が来て我々にここを出て、東部都市に転住して米国戦時社会に貢献するよう促した。又、若い二世たちに第四四二部隊や第百大隊編成のため志願兵の募集に来て。この旨の通達を出した。この時、俄然転住所内に賛否両論。紛々として大騒ぎとなった。教役者{仏教、基督}に協力依頼があって、二世だけの集会が開かれることになった。「我々は日本を知らない。母国は米国合衆国しか持たない。だから、この際我々は米国のために貢献し、ひいては我々の父母が他日外を歩く時、あごを高くして大道を闊歩できるように我等は志願する。」と決議した。この結果、ミネドカから最初三十九名だった応募者が遂に二百五十名のボランテヤが出たのであった。後日の彼らの戦功は、今日の日系人黄金時代の来る基礎を築いた。

転住所から外部に転住した有能の士は、シカゴやニューヨークの大都市に安住の地を求めた。ポートランドの林牧師はミネソタ大学で教鞭をとるため出所された。そのほか多くの人が米国各地の大学で日本語を教えるために転住された。私は高校のライト校長の勧めで国家公務員・高等文官試験をソートレーキの本部で受けたが、幸いに通過した。総理スミス博士から『この際出所して奉仕せよ』との通知が来たので、首府ワシントンへ行き日米戦争の終結まで公務に就いた。


恩 寵

ブレーン・メモリアル・メソジスト教会【ワシントン州シアトル】 創立六十周年史として1967年出版の『恩寵』より抜粋



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