Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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  物語 - 一世関係
49 - 鉄道労働者の生活 - 西本初美
 
             
 

鉄道労働者の生活 大正年間 オレゴン州 1918年ごろ

 

西本初美  Nishimoto Hatsumi

 

私はポートランドから1918年(大正7年)にハズバンドに付き添ってオレゴン州東端のハンチングトンに来ました。アイダホ州と隣り合わせの町で、とても暑い所でした。ハズバンドは汽車の機関車を整備する Roundhouse 機関車の車庫の仕事をもらいましたが、私はそこの料理人として来ました。

そこには15人の日本人の男子が働いて居ましたが、私が来るまでは自分たちの料理は当番制で、誰か一人が仕事を少し早くやめて受け持っていたそうです。この山間の町は水利が悪く、野菜が栽培できないので、私の献立は日本からくる乾物の食材を焚き木で大なべで炊いた日本食が主でした。

私は4時に起きて朝ご飯の用意をして、6時にパンケーキを出しました。オイルをひいた鉄ストーブの上にバターをとかして、注意してパンケーキがゴールデン・ブラウンに焼き上がるのを待ちました。正午の昼食は米ごはんに大根・ごぼうのおかずです。晩ご飯は6時からで、米ごはんと日本物の乾物のおかずですが、「おかわり」も一回できました。野菜不足の不平が出だしたのでレタスを植えてから、細切りにして醤油をつけてご飯と食べてもらったこともあります。

私は55ドルの月給をもらいましたが、1918年頃としては他と比べて悪くありませんでした。月給の一部は日本に送り、サンフランシスコの住友銀行にも送って預金しました。料理をしない時は、家にいました。住んだ家は家といっても、壁土でできた洞穴(ほらあな)のようなもので、インディアンの住居に似ていました。ハンチントンはとても暑い所なので、これが暑さを避ける唯一の道なんです。家の中には窓が一つしかなく、しかもそれは小さいので、昼でも電気をつけていました。

ハンチントンには四ヶ月住みました。男衆はみんな機関車庫で石炭で走る機関車の清掃・整備の仕事をしていました。暑い所でとても汚い仕事ですから、高い給金をもらっていました。しかし、みんなの文句は何と言っても「キタナイ」ことでした。ススにぬりつぶされた顔は、黒人そのままでした。仕事が終わると、みんな日本の習慣に沿ってシャワーで荒洗いの後、大きな桶のお風呂につかりました。ここにいた殆どの日本人は歳をとった人で、40歳かそれ以上でした。日本に妻子を残してアメリカへ来ていたのでしょう。みんな、お金もうけ(貯金)が全てで、余分のお金は一銭もないという状況でした。「日本に送るお金がないから」と仲間から借金する話も見聞きしました。唯一つの贅沢は、みんなお酒が好きでしたから、「ウイスキー」でした。

ここでの生活はとても苦しいものでした。日本から来たばかりの私は、毎日が本当に「さみしかった」。その上、夜は「怖かった」。私らの住んでいるキャンプは山のふもとにあったが、上の方からカヨテ狼の恐ろしい吼え声がするんです。今でもそれを思い出します。私は主人に何度も「日本に帰る、日本に帰りたい」と頼みましたが、いつも「辛抱してくれ」が返事でした。

 

英文書 The Hood River Issei より抜粋 (日本語訳 竹村義明)

 

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