Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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  物語 - 一世関係
48 - 晩年の独身一世 - 矢口さちえ
 
             
 

晩年の独身一世  (1933 昭和8年頃)    矢口さちえ

紅生姜(べにしょうが)のおじいさん


日本で大学を了えると間もなく、私はスタクトンに帰り、十ヶ月余り一人で日本人経営の小さなホテルに部屋を借りて、そこからビジネス・カレッジに通っていたことがある。いつも夕飯がすんだ時分からここに泊まっている一世の男性老人たちが、三々五々とホテルのロビー居間に集まって来た。正面には天皇皇后両陛下のお写真がかけてあった。

老人たちを観察しながら、私は父が先に云っていたことを思い出していた。アメリカ生まれとは言え、日本で育ち東京の大学まで出た娘は、アメリカの日本人とその環境に絶望して、すぐに日本に舞い戻ると言い出したら困ると考えたのか、父は私に一本クギを差すつもりで、こんな風なことを云った。"パパみたいに長くアメリカで暮した日本人は、内地の同年齢の人達と比べるとかなり精神年齢がおくれているからね。がっかりしなさんな“

なるほど見ていると既に老境に入った人達だというのに、みんな子供みたいに無邪気で驚くほど生活ずれしていないのである。たわいもない話をあきもせず何時間でも話し合って、いかにもヒマを持てあましているようであった。あくせくとしたところはまるでないし、外見も内地の老人達よりはるかに若々しい。仕事さえすればアメリカでは何とか食っていけたし、貯金もいくらか出来た。互いに角を突き合わせ足をひっぱたり引っ張られたり、"働けど働けど。。。“といった憂いもなかったから、身をすりへらしながら働いている内地人の苦労話などは、この人達には実感として恐らく理解出来ない事だったに相違ない。第一そんな面倒な話は聞きたくもなければ考えたくもないといったところがみんなに見えた。

老人達は日本人移民のパイオニアで、いずれも二十年は父より先輩で、当時のフィリッピン人がそうであったように、その昔、単身移民としてアメリカに来た人達であった。二十歳そこそこでアメリカに渡り、以来一度も日本の土をふんだ事のない人達が殆どであった。結婚の相手にも恵まれず孤独に慣らされ、平穏無事な日々に慣れ、気付かないうちに歳をとってしまった老人の悲劇は、わたしが覚えている限りでもかなり多い。いずれも筋書き通りの哀れな末路であった。紅生姜(べにしょうが)のおじいさんも、そんな一人だった。

おじいさんはいわゆる‘変わり者’で、父の農場ランチで働いていた老人の一人だった。おじいさんが独りでテント暮らしをするようになってから、わたしは老人を一層よく見るようになったが、それまでの行状については殆ど記憶にない。たさ、同僚との折り合いが悪く、ことごとに口げんかをしたとか、しまいには殆ど口もきかなかったとか、氣難しい人だったとかいう話は耳にしていた。ランチはの宿舎は、日本人・フィリッピン人・メキシコ人と各々別棟になっており、中でも少人数の日本人労務者の宿舎は離れて設けられ、個室制で各自きれいにしていたから、居心地は悪くなかった筈だが、ある日、おじいさんはそこを飛び出すと独りでテント暮らしをするようになった。以来、ますます無口になり同僚と口をきくのを嫌い、毎日黙々として畑に出、黙々として畑から帰ると自分で飯を炊いて食い、テントに誰も寄せ付けようとはしなかった。父も止むなく、それを黙認した。おじいさんのテントを尋ねるのは、仕事の連絡で父がたまに頭を出すくらいで、あとは子供のわたしだけだった。キッチンの裏手の丸太を二三本わたした深さ一メートルくらいのディッチ(農水路)を渡って、昼飯時になるとわたしはチョクチョクおじいさんを見に行った。

いつ見ても小ざっぱりと五分刈りにした形の良いしらが頭は銀白に光り、やや赤ら顔のつややかな皮膚の整った顔立ちは、がっしりした体格に支えられて、どこか名僧の趣きさえ見えた。身ぎれいな人で、広々としたテントの中はいつもきちんと片付いていた。中でも大きなベッドが立派で一際目立った。入り口はキャンバスを両側に寄せて広くあいていた。そっとのぞくと、正面入り口を向いて座ったおじいさんは、昼飯の最中であった。チラッとこっちを見たが、また元の姿勢にもどり、眼を閉じて瞑想でもするように、カリカリ紅生姜をかじり続けた。そして前に置いたガラスのびんから又小粒の生姜を一つつまんで、御飯の上にのせた。昼飯どきではお菜を煮る間もなかったのか、ほかにそれらしいものは何も見えなかった。御飯も冷飯らしかった。

"さっちゃん、一つあぎうか?" おじいさんは九州弁で(一つ上げようか)そう云うと、紅生姜をつまんでわたしの掌にのっけてくれた。わたしはこっくりして、にーっと笑うと、おじいさんの顔を見ながらそれをかりっとかじった。しょっぱくてピリッとしみて思わず眼をつぶるくらいおいしかった。おじいさんは眼を細めてわたしを見ながら、満足そうに二・三回うなずいてみせた。ふだん、母のしつけで生姜のような刺激物は食べられなかったから、おじいさんに貰って食べた紅生姜の味とその時の思い出をわたしは忘れない。おじいさんとのこの一時〈ひと時〉、それは母もほかの誰も知らないおじいさんと私の二人だけの秘密となった。

あれから数年後に、紅生姜のおじいさんは日本行きの船から太平洋に身を投げて死んだと云う。目撃者はいなかったが、自殺したのは確かで、同じように同じ海で死んだ老人の話を、外にもいくつか聞いている。”日本に帰る船から投身自殺をする人が、必ず一人はいるそうよ”と話した人もあった。

ある日、老人は老骨と化して使い物にならなくなった自分に気づく。だがこれという貯えもない。若い時分に故郷を後にして以来、親類縁者との音信もふっつり絶え、内地に帰っても別に身を寄せるあてもなし、かと云ってアメリカに残って同胞の重荷にもなりたくないし、、、、、。そういった事情をいかにもさらりと話しているのを、ホテルのロビーで聞いてはいたが別にそれほど深刻にはわたしは取っていなかった。だがその後、郷愁の念もだし難く「或いは」というはかない希望をいだいて、老人たちは思い切って故郷に向かう船に乗る人が多かったらしい。前途に待つ不安、屈辱、過酷な現実が生々しくおいかぶさって来て、耐えられなくなってきたのだろうか。これまでの安易な生き方に慣らされた老人には、到底耐えられない試練だと思われたのか。くたびれた心を眩惑する得体の知れぬ海の誘惑に老人は敗退したのであろう。

紅生姜のおじいさんは、その時八十歳はとうに越えていた筈だと父は話していた。


「アメリカ生まれ・日本育ち』より抜粋

著者 矢口さちえ

 

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