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物語 - 一世関係 43 - アメリカの日本人・大変化 - 芳賀 武 |
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アメリカの日本人・大変化 1957(昭和32年) 芳賀 武
アメリカの排日運動は長いもので、その理由は一言では尽くしがたいが、白人対有色人種といった人種的差別が一つの大きな原因をなしていたことは否定できぬ事実である。このことは、他の白人系の少数民族、たとえばイタリア系やポーランド系などの場合と比べてみると良くわかる。彼らは日本人とくらべて数が多いということもあるが、白人だという理由で社会的にも政治的にも進出する機会が多かった。しかし、有色人種の場合はそうはいかず、日本人の二世は名目上はアメリカ市民であっても、市民としての十分な待遇を受けられず、そこで勢い日本に心を寄せる二世も出てくる。アメリカ人はこれを見て、日本人はアメリカに同化しない人種だと非難した。 アメリカの日本人史が大きく浮かび上がってきたのは、今世紀の始まりからだった。多数の移民が日本からハワイと北米に渡った。そして、空手から一旗挙げようと奮闘したのだが、白人支配の下においてのことであり、その出発点からすでに劣位にあった。したがって、日本人はアメリカに全面的な好意を持てるはずはなく、早く一ドルでも多く貯めて日本に帰ろうと努めた。しかし、いくらアメリカでも、お金はなかなか貯まらない。そのうちに、日本から妻の呼び寄せをしたり、子供が出来たり不況がやってきたりして、帰ろう帰ろうと思っていた日本にも帰れない。しかも、日本人排斥はしつこく付きまとった。 排日運動は年毎に強さを増し、1920年の日本人の土地所有と借地の禁止する土地法や1924年の排斥移民法の成立となった。「日本人立入るべからず」の立て札は到る所に立てられ、町では自分の好きな地区でも日本人は住めない地区が出来、日系人社会の産業の中心だった農業も地主農業・自営耕作が不可能になった。 こういう状態の中で二世の生活はどうであったか。生まれながらのアメリカ市民である彼らも、皮膚の色が親と同じである以上、白人から見れば市民か外国人か区別が付かない。だから、一切の社会的待遇は有色人種として取り扱われた。1906年頃、カリフルにア州に日本人学童問題というのが起きて、日本人学童と白人学童とを分離教育しようとした事があった。その後も排斥は続き、日本人二世がいくら大学を優秀な成績で卒業して専門技術を身につけても、白人社会での就職はむずかしく、仕方なしに日本人間において、はした仕事にありつくほかはなかった。彼らはアメリカ民主主義に疑惑の目を向けざるを得なかった。そこへ真珠湾の闇討ちが行われ、フイを食らったアメリカは、『ジャップはどこまでもジャップだ。』と怒って、市民である二世までも奥地の収容所に入れてしまった。二世は怒った。「アメリカ人の俺たちを放り込むなら、ドイツ系やイタリア系はどうだ」と言った。だが、それは聞き入れられなかった。(中略、要約。1944年、収容所の閉鎖が決まり出所できるようになったが、古巣の西部沿岸には日系人帰還反対の空気は依然として強かった。) 戦争が終わって時の経過と共に、日系人を取り巻く世相も変わった。ロス・アンジェルス周辺の町の水道局や土木局で、戦後は下っ端の仕事に二世の大学出などを使っている。あっち・こっちの事務所などでも若干の二世ガールなどを使っている。これは戦前には絶対になかったことだ。また一世にもこの頃は市民権をくれる。活動不可能期に入った老齢の一世では、それを貰っても活動する事はできないが、アメリカは結構な国だと感謝している。そして、一世も二世も、日本が負けてよかったと云っている。それは、日本に軍閥がなくなったり民主主義の国になったからではなく、アメリカ社会が自分たちを優しく受け入れてくれるからである。日本が勝っていたら、もしかすると戦前の「屈辱の日々」よりも悪い取り扱いを受けているかもしれないと思うからである。 筆者、芳賀武は北米新報〈本社、ニューヨーク〉理事、東京支局長 平凡社刊 世界文化地理大系 第25巻「アメリカ」 1957年4月出版 附録 月報 第16号より抜粋 この一文が書かれてから50年余り経った現今これを読むと、日系人に対する態度の変り方の大きさに驚かされる。今や日系人はアメリカ社会のあらゆる分野に参入し、その存在は広く認められるに至った。 2009年YGT記す
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