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物語 - 一世関係 42 - 土居与佐次郎 - インタビュー 一世らしからぬ一世 - 竹村義明 |
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土居与佐次郎 Yosajiro Doi インタビュー記録 出生 明治 29 年月23 日 (1896) 愛媛県西宇和郡三崎町
四国佐田岬が長々と九州に突き出して豊後水道の黒潮をせき止め、温暖平穏の鏡の海瀬戸内海を作るその岬の突端近くに長じた土居には、明るい気性雄大なところが自然に備わっている。高等小学校を終えると十七歳で父幾次郎の呼び寄せで、既に長兄の渡っているアメリカのシヤトルへ旅だったのであった。母ノブと二人の弟を残して家を出た。(1913 年渡米) 土居にとっては、アメリカは所謂「外国」ではなく、父や兄のいる懐かしく、また希望の国であった。土居の乗った船には、彼と同年輩の青年が二・三人父親と一緒に乗っていたし、女の子も乗っていたが、彼女達は沖縄県人で何故か日本語が話せないので、十歳位の少女が通訳としてついていたのが不思議に思われたのであった。 上陸以来、土居は一度も日本の土を踏んだ事がないという徹底振りで、当時の一般の人のような移民という感覚は全く持っていなかった。もっとも、初めの数年は里帰りしてみたいと思ったことも度々あるにはあったが、何時の頃にか日本のことは忘れてしまって、アメリカ人になり切っていたのである。 土居の思い出話は大変面白い。 「いわゆるパンパンとかいう種類の女の子は、当時居なかったネ。そんな娘は僕等より一回り先にアメリカに来ていた様だ。日本人の娼婦というのはシヤトルあたりでは全然居なかった。料理屋は盛んにジャンジャンやっていたがネ。」 「それから、シヤトルへ出て、直ぐにスクールボーイになった。スクールボーイに行く者は大分あったが、学校へ行ってみて全く困ったよ。幼稚園生のようなのと一緒だろう。馬鹿々々しくて勉強出来んがね。今日のようにアダルトスクールなんてのは無いんでね。」 「親父と一緒にシヤトルから六・七十マイル離れた小さな島へ石切りに行って、その年の十一月まで働く。あの石灰石を切るんだが、島全体が石灰の石だったんですね。当時日本人がその島に六・七十人も居た。親父は、その年の十月頃日本に帰ったが、当時は家族を残しての出稼ぎは極く当たり前のことだった。」 石灰石切りの短調な仕事を数ヶ月で辞めた土居は、レストラン働きを一年位やった。根っからの商売人でなかったし、大体金儲けは性に合っていなかったようだ。今度は洗濯屋で働くことになった。二十歳になるかならぬかの血気盛りの青年である。何か面白いことがあれば、それに夢中になりたい年頃である。「オーイ、ベースボールのチームがるが入らんか」と洗濯屋から誘われるままに、二つ返事で入る事になった。洗濯屋の主人が好きだったからではなく、遊びたかったからである。日本では野球の真似事さえした事もなかった土居が、メキメキ腕を上げたのは元来スポーツマンに生まれついていたからであろう。 そして、スポーツが土居の人生行路を決めることになったのである。四国松山には、天下の強豪・「松商」があり、名も無いチームとはいえ地元に「八商」八幡浜商業のチームもあったのだが、土居はすでに中等学校野球の OB の年齢で、アメリカ日系人野球界の新入生となり、その後角力・フットボールと遅ればせにスポーツの道をまっしぐらに突き進むのであった。 負けじ魂の権化・土居は無我夢中で瞬く(またたく)間に、キャッチャーで四番打者にのし上がった。野球が面白くて面白くて時の流れも忘れ、仕事の事も有り態に云って、どうでもよかったのだ。 「その時分、ソーレ、僕が洗濯屋に入った頃は日系人野球の草分け時代だった。もちろんボールはナショナルリーグの正式の革製ボールだったよ。僕が最後に入ったアサヒクラブはキャッチャーが欠員で困っていた時なので迎えられて、それからずーっとキャッチャーで通したんだ。シヤトルのシチー・リーグでネ、白人の連中がシヤトルの各ディストリクト〈地区〉でリーグを作っていたが、ジョージタウン、ユニバーシティ、ブロードウエイ、バラード、コロンビアなどがあってネ、シティー・リーグ戦をやっていた。僕はキャッチャーを通算十四年やった。正味プレーをしたのが十四年、それからマネジャー(監督)になった。とにかく知らぬ間に一番古参になってしまったので、〖お前 マネジャーをやれ〗と云われてネ」 「一番記憶に残っているのは、何と云っても早稲田大学チームとの試合だね。安部磯雄先生と飛田穂州さんの引率の早稲田とネ。シカゴ大学招聘で遠征の帰途、シヤトルへ立寄って、僕らと試合をやる。それから僕ら以外のミカドという日本でも相当やっていた連中が作っている強豪チームともやり合ったね。それが日系人チームでは一番強かったんだが、僕らは早稲田には無論負けたよ。今このロサンゼルス小東京で「二世エレクトニック」をやってる K. 高吉、あれがピッチャー、そして僕がキャッチャーでネ。あれは確か早稲田の全盛時代だったよ。シヤトルに来たのは1925 年(大正14 年)だった。」 「阿部先生に飛田さんネ。僕もヨーク憶えていますよ。早明戦、慶明戦、そして天下を二分する早慶戦など懐かしいですよ。飛田さんの批評は実に簡明で胴に入 ったものでネ。僕など試合の翌日は飛田さんの新聞評を何時も待ち遠しい思いで、何回も何回も読み直したものでしたよ。」(聞き取り人) 「毎年のリーグ戦で、ミカドと僕らとの試合はシヤトルを沸かせたもんだよ。よく領事が始球式にやって来たもんだ。あの時は阿部先生だったな。その次には、ソーレ、後に現職のままで亡くなった駐米大使の斉藤博さんが、ここの領事の時に始球式に来てくれたよ。身体のキャシャな人でしたよ。」 (聞き取り人)「そりゃ光栄でしたネ。斉藤さんがですか。あれは偉い男でしたよ。駐米大使で斉藤位の人物は無いと言われていましたよ。僕らの学生時代の人だが、今でもいろんな本を読んでいると斉藤大使のことが出ているんだが、大した男でしたよ。頭がとても鋭くて、人間が出来ていてネ。親米派でルーズベルト大統領にも信頼されていて、大統領は彼の死を悼み、わざわざアメリカの軍艦を派遣して遺骨を日本に送り届けた。野球をしてる時、若い娘になんかサインしてくれと言って後を追っかけられなかったですか。大もてにもてたんでしょう。」 「それがね。娘が来る・来んと云ったって、その時分、日本娘なんか居りゃしなかったんだよ。ヤンキーガール? そりゃ沢山居たけれど日本の連中のようには騒がないネ・・・・・。むしろウルサイのは日本人の婆さん連中だった。ひいきに勝したくてネ。リーグ戦になると、シヤトルの日本人社会は真っ二つに分かれたネ。ひどいのは、或る大きな貸し自動車屋がカケをしてブロークしてしまった例もある。で、僕らのアサヒ二世組とミカドといって日本から来た連中の優勝試合には、バクチ場の連中はミカドビーキだった。二世の強い連中が主体だった僕らの若僧チームがたまたま勝った折には,一度こんな事があったネ。三宝に短刀をのせて送ったんだ。『ミカドクラブともあろうものが、オレ達若僧チームに負けるなんて、みっともないじゃないか。切腹しろ。』」 土居は 1924 年からは、毎年四月頃からアラスカへサモン・キャナリーの仕事にセカンド・フォーマンとして出かけた。これは、大変な優遇である。その後、ずーっと北の方へ行くようになってからは、五月十日頃から三ヶ月位留まることになる。シヤトルから働き人のフィリピン人百二十名をつれて行くのである。 或る時のこと、時の大橋忠吉領事に面談を求められて会ったところ、領事は机の上に足を投げ出して話をするので、土居は呆れもし、少々むっとした。話は日本の二万トン級のカニ工船がサモンの密漁をやっているとのことだが、本当かどうかということであった。多分アメリカの政府から日本国へ抗議が来たのであろう。そこで、土居は自分はキャン詰めの方の仕事をしているのだから、漁の方は知らないと云った。しかし、日本からの漁師は潮加減を見ておいて、領海の三マイル以内に入って漁をやっていたらしい。巡視船の見張りから情報が入ると、コミッショナーのボートがポンポンと取り締まりにやって来るまでの二十分か三十分か の間には、日本の漁師は領海外に出ているので密漁にはならない・といった巧妙なやり方をしていたらしいんだが、困ったことに水上飛行機からカメラに収められていて、どうにもならないようになったということである。事実アラスカの海は、ずーと遠浅で鏡のように静かで、ただ霧が深いだけだから、日本の船はあの「ウタセ」で取りまくったようだ。 ダッチハーバーを越えてベーリング海は入ると、海は静かなもの、平生は波もない。その遠浅で日本人はまあ勇敢に、とにかくよく働いたものだった。カニなんか取るのを見ていると、カゴに肉のついた骨など入れたのを海に沈めてウキを付けておく。それを次々と引き上げて獲物を取り出しては又餌を入れておく。オーバーな表現をするなら、根こそぎといった有様。そこで、相手がやけてか、文句も時々出たのではなかろうか。北海の荒海なんてのはアリューシャン・シーではない。それに、風の強い日なんかも滅多になかった。それでも一度は強風でアプルの空箱を持って歩くのに、どうしても前へ進めぬ。ただし、人間だけなら歩けたようなこともあった。 出稼人夫は「シーズン幾ら」で雇われているので、獲れる時にジャンジャン獲るというやり方だったから、時間給ではなかった。夏のアラスカは日が長くて夜が短い。「サンテンポン」といって朝の三時三十分には仕事が始まるのであった。勿論、コーヒー・タイムもあったが、土居の率いていたフィリッピン人の待遇は、土居の目から見れば、人間扱いとは云いにくいものだった。 例のスペイン風邪がシヤトルにはやったのは、一八一八年から二〇年頃だが、約二十年位後にそれがアラスカに猛威を振るった。土人にも種類や種族が沢山あるが、ロシア人とインディアンの合いの子のインディアンがこのスペインフルーに襲われた光景は物凄いものであった。同じ穴( ムロ )に村全体が一緒に棲んでいるとか。穴( ムロ )の数は半ダースもあり、総数三・四百人位であっただろう。医者にかけるにも四分の三マイル幅の川を渡るまで命がもたないで、バタバタ死んでいく猛烈さ。川の両岸にカン詰め会社があったんだが、八人位の大工さんが棺桶を造るのが間に合わなかった。文字通り全滅状態で、八十歳の婆さんと子供わ合わせて、皆で一ダースの人が生き残っていたかしらん。(生理学的に)純粋な人々で、病気に対する抵抗力がなかったし、熱に対しても非常に弱かったようだ。今思い出してもゾーッとする。 缶詰会社キャナリーの中へ或る日のこと、コミッショナーのボートが奥深く入ってきて「ここに日本人が居る筈だが、ここへ一寸乗れ。」「オレに何の用があるのか」「まあ、いいから乗れよ」という訳で、土居を沖へ沖へと連れて行く。日本のカニ工船の本船まで連れて行って横付けにする。「お前、声かけてくれ、オレじゃ声かけたって日本人じゃないから、「ゲット・アウト・ヒアと言って相手になってくれんし、話もせん」そこで土居が浪の上から怒鳴った。「オーイ、一寸タラップを降ろせよ」「お前等に用はないよ」「お前の方に用がなくても、こっちにゃ用があるんだア。キャップテンにそう云ってくれ。タラップを降ろせとな」やがて、キャップテンらしいのが現れた。「あんたは日本人か?日本人がおるならまあいいや、上がらせ。」土居たちはタラップを上がって行った。 「問題がやかましいのか?」「ノー、やかましいんじゃない。一杯飲ませてやってくれ、他に用はない。酒に飢えているんだ。」「それならお安いこった。」海の男たちの何のわだかまりも無い爽やかな応対がしばし。そして、帰途のコミッショナー氏はいともご満悦で、土居との別れ際に「又この次頼むぜ」「そんなに度々連れて行かれるもんか」奴等もやっぱり人間なんだと土居の心は明るかった。 「フットボールは日本人向きだと思う。身体を鍛え、心を鍛えるのにも大変いいと思う。フットボールは、見ていても、やっていてもベースボールよりもずっと面白い。」と振り返る。大柄でなく、きりっと閉まった身体の少し前かがみの土居が無心で熱中するプレーは、けだし見ものであったことだろうが、土居クラスのフットボールは、プロでもカレッジでもない単なるアマチュアなので、人気も沸かず名声としては大したことはなかったらしい。日曜日の一日の入場料が五十仙だった。ワン・シーズンで四・五百ドルの分け前があったが、道具代だけでも七百ドルはかかったというから、彼の物的生活は清貧に甘んじた高潔なものでしかあり得なかった。 1928 年彼はシヤトル仏教会フットボール・チームに所属した。 フットボールのお蔭で刑務所に行かずに済んだこともあった。「 FBI に警察へ引っ張られて尋問を受けたが、それは何でもバクチ場と関係があるということでネ。シヤトルで山本金吉といって人を十何人も殺したことのある男と友達だというのでネ。金八という呼び名で知られていた男だったが。」「移民官がヒヤリングでやかましいことを言いやがって、三ヶ月も僕は移民局に閉じ込められた。丁度其処のガードマンをやっていた男が、僕と一緒のフットボール・リーグのワン・ディストリクトのマネージャーだった。その甥坊の叔父さんに話をするという訳だ。そのガードマンが僕に入れ智恵をして『オイお前、入りたいと云え。後はいいからオレに任しておけ』というんだよ。「オーケイ」といって刑務所に入ってしまったよ。そこで、そのガードマンは、それ例のレイ・エックマンに連絡した。エックマンは早速FBI へ怒鳴り込んだネ。「何で土居を変なところへ入れるんだ。土居が何時悪い事をしたか。悪い事など一度もしたことはないじゃないか。オレは土居を二十年も三十年も知っているんだぞつ」とね。それで直ぐ出してもらったよ」 「一九三二年か三年頃の夏だったネ。大毎特派員の宮崎秀男というのが、関西六大学リーグ戦に優勝した関西大学のチームを送って来た。大毎が折角送ってきたのに、こっちの学校との連絡が付いていなかったため、試合が出来ない。学校が夏休みだから。そこで僕がワシントン大学のアスレチック・ディレクターをやっているフットボールのレイ・エクマンに頼んで、そこいらの大学チームから刈り集めてもらって、試合だけはどうにかさすことが出来たが、大学チームだけでは、レラチーブが少ないので実入りがない。ホトホト困ったよ。そこで、アサヒとミカドで各々百ドルずつ出させることにした。僕はかいけいとして加わっていたので、自分も百ドル出して、どうにか金の方は都合をつけたが、宮崎の方はそんな事は知らなかったんだろう。「ご苦労さん」ともいわなんだよ。最も彼らに借りごとを作らすと、後が良くないから何もなかったこのが一番よろしいんだがね」 「東京ジャイアンツの宮崎が総監督だった頃、来てくれたことがあったが、彼らの宿舎のホテルの下で、内の家内がクリーニング屋をやっていた所へやって来てくれて、その時一晩飲んだりした。そのジャイアンツのキャプテンが家内の同郷人だったりしてね。」土居はベースボールの関係で、日本から招待された事が二度あった。一度は日本へ行くことになっていたが、土居の働いていた鉄道工事でトンネルが崩れて、どうしても手が抜けず、お流れになってしまった。日系人チームの中で活躍していた土居は、日本からのこの道の有名人との交わりが出来たのだった。 日米戦争で例のキャンプ入りのミネドカ転住所では、彼は二百五十台のトラックを持つ運送部門の舵を取り 450 人の働き人がいた。キャンプへ入る物も出る物もすべて土居の手を経ねばならなかったのである。キャンプの暖房燃料が石炭だったので、石炭運びは大変な仕事だった。 どこのキャンプでもそうだったが、自治会ができてみなの選挙でいろんな部門の責任者を決めるのだが、土居はすでに手一杯だから自分には決して選挙しないように若い者たちに云っていたので、その点はうまく行って次点だった。ところがトップだったドクターが、忙しいドクターの仕事があるので出来ないというのだ。そりゃ当然だと言うので、フッド・コミッショナーというべら棒に忙しい仕事をさせられる事になった。一言の相談もなしに、当局が決めてしまって、「お前やれ」と言うんだ。ひどい事になったと思ったが、仕方がなかった。もっとも、この仕事は他の者にはむずかしかった。というのは、トラックが土居の管下にあったからだ。彼はミネドカ転住所の自治評議会の役員を永年務めた。 「戦後の子供は悪いと言われるが、それはこのキャンプ生活の結果だ。そこでは、父も母も子供も経済的には同格だった。親に養われるという事を通しての薫陶がなかったからだ。」一考に値する発言ではなかろうか。 土居は朝から夜遅くまで忙しい毎日を過ごしたが、若い者の気持ちを掴むことに多年の修練を積んでいた彼は若者の立場に理解を示した。キャンプ生活の中では若者達は暴れに暴れた。無茶苦茶に暴れたから堪らない。無理もないことだった。文字通り理不尽なキャンプ入りをさせられて押し込まれてしまったのだから、心の中がムシャクシャしておさまりがつかない。「何だ。おれ達はアメリカ市民だぞ。お前達にこんな目に会わされる訳はない!」 学校で善良なアメリカ市民たるべく教えられ、憲法や法を守るように仕込まれてきたアメリカ市民だから、フンマンやる方ないのは当然がった。だから、その暴れ方には全く手が付けられないでホトホト困り果てた当局は、土居にすがりついて、「オイ、何とかしてくれよ。」と手を合わさんばかりに頼み込んだのだが、「出来んネ。若い者の云うことが正しいよ。お前等の方が間違ってるんじゃないか!」曲がった事の大嫌いな一徹者の土居にニベもなくはねつけられてしまう有様だった。 若者はよく MP (憲兵) に喰ってかかった。「何しに来ているんだ。サッサと失せろ。お前たちの来る所じゃない!。MP だって「そうは言わさん」とは云えないので、堪り兼ねたキャンプのディレクターが「あんまり言わさんようにしてくれよ」と土居に頼むんだが、土居には、それだけは出来なかった。「云うたて仕様がないじゃないか。あれ等は二世だぜ。アメリカ市民だぜ。オレがどうせよ、こうせよと云うたて、あれ等が聞く道理がないよ。」と却って土居に遣りこまれる始末だった。 そのくせ、かの有名な第四四二連隊へ若者達はどんどん行くのだった。土居の所のキャンプの若い者たちは、殆ど全部行ってしまったのだ。偉大なるかなに二世・アメリカ市民達!だった。そのころ土居のところへアシスタント・ディレクターが相談に来て、他の者が行くと若い者が又騒ぐから、お前行って若者と話し合ってくれと頻りに頼んだ。土居がこの役を買って出れば,若者達から「犬』呼ばわりをされるは必定。しかし、事態は急迫している。眉に火がついているのだ。土居は意を決した。「犬」と呼ばれようと「猫」と呼ばれようと・罵られ用途、最早座視することは許されなかった。事と次第によっては、一身を賭しても遣り通す。土居はそういう男なのだ。「焼くなと煮るなと勝手にしなせえ」と言える度胸の持ち主なのだ。男が惚れる男なのだ。 土居が実際に当ってみても、親と子の見解は正反対だった。土居の兄の息子の場合など、息子の方から土居を訪ねて来て、「叔父さん、パパもママもわしの言うことが判らん。どんなに話してもわからん。叔父さんが行かないとパパもママもウンと言わんよ。」無理もない。親はそう簡単に、祖国に弓を引けという道理がない。しかし息子は、アメリカ教育を受けた立派なアメリカ青年だ。親とは物の観方、考え方が違う。悲しい事だが、両者の意見の一致はむずかしい。土居は兄貴に向かって「お前,何言ってるんだ。考えても見ろ。お前の息子はどこで育ったのかを。育ったところをようく見ろ。アメリカの空気を吸うて育ったんじゃないか。それを「行かすとか・行かさん」とか言ったって、そんなものが通る訳がないじゃないか」と遮二無二切り込んだ。 「・・・・・・・」「・・・・・・」長い長い沈黙の後、兄貴の沈痛なつぶやきが微かにもれた。「・・・ふーん。・・・まあ仕方がねえ。・・・・・・行かすか・・・・」とぎれとぎれの苦痛なうめき声だった。皆が一様に悩みに悩んで胸をえぐられる思いで、やっとのことでここに辿りついた。しかし、これは正しい決断だった。皆の引きつった顔々々。心の中では、父も母も息子も土居もみんな泣いていた。むごたらしい試練であった。脇差を、そして煮え湯を飲まされる思いであった。 他のキャンプでは、二世のリーダー格の城戸三郎が殴られたと言う話も伝わって来た。土居のキャンプでも、こうした事があったようだ。殴るのも無理からぬ、殴られるのも止むを得なかったとしか云えない。皆命がけだったからだ。それが個人対個人の話し合いではなしに、大衆行動となっていたようだ。ワッショワッショもあっただろうし、吊るし上げもあったであろう。暴徒モッブの行動原理に支配されての出来事が起こったからだった。何時までも心の奥深く残るイヤな傷跡であった。 終戦、そしてキャンプからカリフォルニアに出た土居達に、日本復興への援助方が要請される日が来た。多くの日系人、特に一世は母国日本の一日も早い復興を願って、努力と犠牲を払った。土居達の出身県の愛媛県は、大学建設に伴って、在米同胞の寄付を頼み込んできた。駅弁式に方々に大学ができたのだ。初めは毎週土 / 日の両日、しまいには水曜日まで費やして、寄付集めに一万マイルも走った。混乱と失意の母国に光明を献じた在米同胞の助力は、日本の復興と発展に寄与した。 やがて、土居は老躯を押して県人クラブの会長を六年もの長きに亘って務めた。土居の大所高所からの物事の判断は誠に公正で、その行動も時宜に適したものだったから、県人会が土居を永年会長に釘付けにしたのも無理ならぬことだった。スポーツマンとして、やる事は大体やり尽くした彼は、三年ほどレストランをやり、その後日本人お得意の分野の職業である庭園業者となり、気楽に自分ひとりで戸外の新鮮な空気と、サンサンたる南加州の陽光に恵まれながら適度に身体を動かしたのであった。・・・・額に汗して働く事に終始して・酒も飲まない土居の日々には、天与の「健康」が与えられたのであった。子宝に恵まれず、浪費の時間も無かった事ゆえ小金は多少貯まった筈だのに、さしたる貯蓄が無いのは不思議である。春枝夫人に云わせると、土居はあり余るお金を馬に喰わせてしまったらしい。いや、馬に喰われたらしい。一つの偶然を本人は必然と思い、それに全力投入のカケをする気持ちは、スポーツも競馬も共通している。土居の活淡さの表れであろう。 今、土居は小東京タワーの一室から世の中をじーと眺めている。さめやらぬ往時の闘志を燃やすものは、黒白争いにウエーラー街サンビル内の一室での碁会所通いががあるのみ。高齢者達に奉仕で用意される週四回のお食事会に出向のほかは、これといってすることもない。春風秋雨土居の胸中を去来するものは何か。彼は多くをかたろうとはしない。寡黙の日々を凡々と送り迎えしている老人である。 漸く西山に傾かんとする落日を、人生の哀歓をこめて 詠 い上げる春枝夫人の二首を添えて、土居家の永久の栄光を祈る次第である。土居の華麗な人生行脚の「哀史」は永く後世に光を放つことであろう。 美しく 哀しくあらむ 残る生 夫と呼ぶ人 寡黙なる午後 おわり 「歩みの跡」1978 南加日系パイオニアセンター刊 より抜粋
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一世らしからぬ一世 土居與佐次郎に想う 竹村義明 厳格に云うと、年代的に一世には二種類あって、初期に渡米した一世と親の呼び寄せにより来た一世がある。1907 年に日本政府がアメリカへ行く移民を大幅に制限した「紳士協約」により、アメリカへの渡航が普通移民は極端に制限される中で、制限枠外の呼び寄せ移民は増え続けた。紳士協約以降、日本からの女性は在米日系男性との結婚のための渡米が多かったが、男性の場合は、彼のような在米の親による「呼び寄せ一世」が多く、やはり出稼ぎ的な渡米が多かった。同じように日本生まれであるが、年齢的に「呼び寄せ一世」は初期渡米一世とは一世代違うので 30 歳ほど若かった。土居与佐次郎もその中の一人である。 刻々と大きく移り変わる日本の社会事情の中で育っているので、両者の考え方に相違が出てくるのは当然であろうが、彼にはなお日本古来の日本人的なものが残っているように感じる。現代の「寅さん」のような所がある。精神的な面だけでなく、仕事を求めて渡り歩く生活は葛飾の寅さんを連想させる 。 新しい文化のこの国に来て、彼は日本伝来のよい所を保ちながら、アメリカ生活に足を踏み入れている。日本ではした事も無かった野球やフットボールをして、スポーツの全力投入とフェアプレーの精神を学んだ。 今まで多くの一世に接してきたが、彼は従来の一世のイメージとはかけ離れていて「一世らしからぬ一世」である。一世の多くは日本に「引揚げ帰国」したが、「来た切り雀」も多かった。彼には野球時代に二度訪日のチャンスがあった。しかし、やむを得ぬ事情で行けず、彼は遂に一度も日本に帰らず、我々の礎石となった。又、一世の多くは独身で下積みの一生を送った者が多いが、彼はそれとも違って、結婚してビジネスをしたこともあった。結婚した一世の家庭は子沢山だったが、彼は結婚はしたが子供には恵まれなかった。賭け事が好きで、ホースレースの一発に賭けたらしが、競馬は一世には珍しいことで、ここにも彼の「一世らしからぬ一世」の顔がある。 戦時中、収容所内で忠誠登録に続く軍隊入隊、徴兵忌避、MIS 陸軍語学校問題など若者男子を持つ家庭内での親子の葛藤の存在を幾冊かの本で読んだことがあったが、このインタビュー記録を読んで、それを目の当たりに見る思いがする。聞き取り人・筆記者の貢献も大きい。 この資料館にシアトルのチーム「アサヒ」が加州フレスノに遠征した時、大球場のバックネット前で両チーム選手が関係者やアンパイヤーと共に横一列に並んで、記念撮影をした長い写真がある。1996 年頃、シアトルで二世夫人に見せた時、彼女は三人の名前を教えてくれた。Sankie Arai 、Tomeo Takayoshi 、Tsuruo Nakamura 。アサヒの花形選手に違いない。ひょっとしたら、彼女のボーイフレンドかも。その中のTomeo Takayoshi は土居の言うK. 高吉に違いない。K は英語名の頭文字か。エースの貫禄充分で、背も高く選手の「ど真ん中」に写っている。キャッチャーの土居も居るのだろうが、プロテクターを着けていないので判らない。両チーム共に、在り来たりのチームという感じではなく、列記とした「都市対抗野球」に出るような風格が見える。戦前の西部沿岸各地の日系社会には、現在の社会情勢からは理解できないような現象があって、贔屓( ひいき )にするチームの試合ともなると熱が入り、当時の沈みがちな日系社会の慰安と活性剤になっていた。だから、そんな交通の不便な時代でも、日本人チーム同士の遠征野球や招待野球は沸いた。 一万三千人余りの入ったミネドカ収容所の記録、The Minidoka Interlude を見ると、土居は入所した 1943 年5月から閉所まで住居区 Block 44 の Block manager (責任者)と Block representative ( 代表者・代議員 ) をしている。アサヒの監督で名前が知られていたのか、ブロック 44 の約 50 家族(住民 230 人)に信頼されたのか、両役を同一人が最初から最後まで勤めたのは、40 余りの住居区の中で土居の外には唯一人いるだけである。これほどの人物ならば、日系社会の有力者として開戦時に FBI に検挙されて、抑留所に送られると思うのが従来の受け取り方であるが、彼の事例は検挙基準研究の参考になる。もう一つ気になるのは、同居者の名前が「 Michiyo 」と記入されている事である。どちらの名前が正しいのだろうか。 妻、春枝の短歌二首は夫、与佐次郎を詠んだものだろう。二首目も、彼を近海に沈んだ難破船と見立てながらも、深い愛情を込めて夫の奮闘を讃えている讃歌である。 おわり
一世パイオニア資料館
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