Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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  物語 - 一世関係
40 - 俳人 ・ 青稲、佐藤豊三郎の最後 (1)
 
             
 

俳人 ・ 青稲、佐藤豊三郎の最後 (1)

 

佐藤豊三郎・青稲は昭和八年(1933)五月にカリフォルニア州スタックトンで亡くなったが、遺品の中の手帳の記入は、昭和七年(1932)十一月二十六日の句が最後で、手帳の残りは空白のままである。

昭和七年の暮れ頃から、ローダイやスタクトンの日本人宿 boarding house に移ったが、病弱の上に失業して、その日の食べ物にも困る貧困で、苦しい毎日を送った。

友人や知人に手紙を書いて援助を頼み、見舞金は島中氏から三回で四十ドル、野々口氏から五ドル合計四十五ドル受け取った。一月五日と三月三十日の島中氏からの封筒の裏側には次の六句が書かれている。

  無料診察所に支那の老人もわれも交りて
  髪から顔を出した新月の眉
  レベーから梨花を眺め病院に急ぐ(櫻花ちらほら)
  病む旅館の階下は歓楽の巷
  病む身は只食ふことしか何も考へない
  無料診察所に支那老人もわれも交りて

 

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   1933 青稲の送り出した手紙

   1933 青稲の受け取った手紙

 

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From:

T. Satow          差出人:佐藤豊三郎 青稲
c/o Hotel Diamond
125 W. Main St.
Stockton, Calif.

To:

Mr. Y. Shimoyama      宛 名:下山逸蒼
1601 Geary St.
San Francisco, Calif.

 

下山兄
昨秋から今年にかけて、失業者の群に入れられて。随分ひどい目に会ふたが、この度は一番難渋して居る。此の三月の初旬、ようやく仕事に有付いて安心して居ったら、此度は病気にかかって休職の外なく,長らく失業して居ったから、普通の医者の診察を乞ふ金ないから須市の市の CLINIC の医者の診察を受け、薬を貰ふて来て服用して居るが、止宿料がないから須市の救世軍に依頼したら、是れもはねつけられ、来る金曜日に郡立病院に入院の手続きだ。此れも、オイソレと右から左に運ぶまい。病気は腎臓病だそうです。腰部が痛んで歩行に困難だから、ベットに寝て居ります。失業の果てだから、毎日のかてになやまされて居ります。波多さんには君から御伝言を願ひます。
不一   佐藤生 

三月二十八日
下山兄                

 

下山君
救世軍に依頼して郡立病院に入院を依頼した処、世の不況の為に僕のやうな軽病患者は入院を拒絶して居ると云ふのでガッカリして、自分の hotel に病体を横へた処、今度は此の rooming は三月三十一日限りで close up するから他に移転して呉れとの話、悪い時には何処までも悪く行くものとは驚く外はない。死は其の底かも知れん、、、、、、、。それで此度は左記の場所に移転したから御知らせ致し置きます。

c/o Nippon Hotel 401 S. Center St., Stockton, Calif.
波多さんにも宜敷御伝言願ひます。 四月一日  佐藤生

 

波多様   四月二日午後 下山生  ハガキ
過日は御好情に依り思ひもよらない愉快な休日を送らして戴き、感激して居ります。句はもどりに寄って紅人に渡し、ウドは三分して城しげる、珠樹、中川卓さんへその夜のうちにくばりましたが、卓さんは一番喜んでゐました。

さて、青稲から今朝又手紙まゐり、郡立病院入りもダメになった上、ヤドも三月きりでクロースし転宿で、死を待つばかりだとあります。そして、波多氏へもよろしくと、、、、、。彼のアドレスです。。。。。。。                 下 山 生

 

四月十一日
波多さん
逸蒼兄を通して御知らせ申上げましたが、業病に祟られ、ついに腎臓を侵され昨秋より失業に苦しみ、今亦病気に襲はるとは我ながら我が身の不運に驚き、泣くにも泣かれない悲惨な近況です。失業の果てだから友人やボスの同情に依り、スタクトンで拾仙ベットに呻吟して来ました。病気の診察と薬は市の無料診察所から貰ふて来て病体を養ふて居るが、毎日の止宿料や食料は、近来不況のため日本人ボーデングもホテルも現金でなければ止宿さして呉れなければ、みずの一杯も呑ませんと云うふ有様です。あなたは大家族を持って居る人だから甚だ申し兼ねて、今迄ドウカして来ましたが、今月一杯はどうしても働ける身に回復は出来ない様ですから、幾らか援助して戴けませんか。切に御願申上げます。不況で身にまとうものを買う余裕がなく、あなたの所に二三年前に御あづけ申したシャーツがまだあるなら、御送付を願ひます。先は御願まで。
  唯々ヤセタ我手を見つむるのみ             青 稲

 

四月十二日
逸蒼兄
兄より手紙を貰ふてから一週間、幾度兄の手紙を読みし事よ。知人友人のない当地では、君の手紙が友人であり僕の慰安者である。昨日王府の波多さんに事情を訴へ、援助を仰ぎたい手紙を出して置きました。桑王の俳友は、僕はスタクトンでブロークして食ふにこまるから、あんな手紙を逸蒼氏に出した位に思ふて居らなければよいが、実際金でもあれば、王府にでも移転して病気を保養したいが、今止宿して居る日本旅館に自分のベット・クロスを使用すれば、一日拾仙で日当りのよい暖かいベットがあります。勿論、一室に四五人寝なければならないが、目下農繁期のはじまりだから、病人や老人の外に止宿して居るものはない。それにスタクトンはデルタの首府だから、食物が安いので、僕は病気の全快するまで居らふと思ふて居るのである。

市の無料診察所の薬で、身体が余程楽になりましたが、今月はトテモ働き得る身体に回復が出来まい。そうすると、ベット代と食料、日に二三拾仙はどうしても入用だ。で昨日波多さんにも其の事情を申上げて助力を乞ふた訳だ。僕は君の病体と君の事情を知って居るから,何にも君に助力を仰ぐ積もりじゃない。他の友人の助力を仰ぎたいのだ。練習艦隊だ、松岡全権だ、とか他に面白い金の入用な時だから、病気の友はあまりこうばしいものでない事は知って居るけれども、時のめぐり合わせはおかしなもので、幸運者と不運者が一所に成るものです。何もできないものは相談せんが、事情を打ちあけて話してみればこんなものです。

金玉の名句どころの騒ぎじゃない。ナマリの如き重き句が出来たら御目にかけます。 
                             青 稲

 

下山逸蒼から青稲への手紙
1933 年〈昭和 8 年〉4 月 3 日 投函

青稲兄
先月二十九日にもらった手紙は、早速其の夜、紅人、しげる、珠樹らにも見せた上、翌日の公休日にはクロスベーして波多さんにお目にかけたし、去る二日落手した手紙は、やはり前記の人々に示し、その夜は、パリアに杜女と同棲してゐる渓巌子と波多さんへ通知した。(昨日ヒョックリやって来た余子丈にも見せたが)といふ様な訳で、今夜は珠樹の家に寄って在桑港の俳句人からいくらかでも纏めて君の急場のヘリプすることになってゐる。

いやはや、この世界的不況はいふだけヤボだが、あらゆる人間に祟って、僕のシンブン社なんかは給料なんといふものはなく、いよいよ窮してワイワイ騒いで、総休するの何のといふと五弗渡したり渡さなかったり。先週サタデーなんかも、モンスアップ過ぎても、約束の日なのに何の音沙汰もないので、休んでやるのなんのと云ったら、しぶしぶ二弗五拾仙づつ呉れた。、、、といふやうな次第で、殊に俺と来たら、例の業者で毎晩、野一式電療を自分でやってゐるが、―― それだけで充分な苦難なのに、それに加へて一ヶ月ばかり前からヤハリ腎臓か膀胱か痔かもエタイの知れないものが出て来て、小便がつまって苦しんでいるが、クリニックも金、医者も金 ―― その金がないので、売薬なんかを求め、且つ電気治療に精出してやってゐるが、どうも苦痛はぬけず困ってゐる。ツマリ「弱り目に祟り目」といふやつなんだらう。ロクな事は一つも身にふりかかって来ないーーといふ場合で、君の窮状をきいてもロクなヘリプも出来ないといふことは、誠に残念なことだが、俺等のやうな種類の人間は、得てこうしたサイナンがひっきりなしにつき纏ふものだといふのが、いよいよ痛切に感ぜられてくる。

現に妻子のある米国へ帰ってくる事も出来ず、日本へ行って落胆を極めた羅府の友人で、いい腕をもってゐた画家の幸徳不影は、大阪で難病にかかり旅宿で人の知らないうちにコロリと死んで、その死体は引き取り人もないといふ肖像のカットまで入った大阪新聞の記事があった。、、、、 だが、一方から考へると是こそ幸徳らしい最後であって、独り幸徳のみでなく僕などもソレに似たり寄ったりの死に様をすることだらうと、今から決めてゐるのだ。、、、どうせ全世界の全人類は死んでしまうのだがら、どうして死んだトコロが 大観達観したら、みんな同じ事なんだから、、、、、と考へて、笑ひたい様な気持ちでゐるよ。俺なんかは君よりずーっと良くその君に似たり変ったりの苦境を経てどん底の苦味をなめてゐるのだから、、、、、。まあすべての環境は是詩境なんだから、苦しい裡にも達観して句帖にかきつけておくやうにし給へ、、、、。

実は、その後の消息は時折「日米」文芸欄で見る外、何ら知るところがなかったので、アラスカ・タイムにでものったら、またヒョックリやってくるだらうくらひに考へてゐたのに・・・・君の苦境は同情の至りであるが、それにしても自分の境遇を客観して、いい句を生むやうにしたまへ。 そのどん底からこそ、金玉の句が生れてくるのだから・・・。 
では・・・・ 四月三日夜 十二時過 ・・・・        下 山

(ここに封入した - 勝利者の冠をかざるところの月桂樹は一昨年友につれられて行ったウド堀り山の谷からとって来たのだ。我々のミジメな環境なり死なりは、ムシロ月桂冠のやうなもんだから・・・ナ)
タマキにもしげるにも古流星のところへも、しらせてくれるやうにたのんである。
渓厳子のアドレスは  P. O. Box 15, Parlier, Calif. である。

 

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新聞の切り抜き「幸徳秋水の甥 流転悲しく死亡 引取人さへなく」も同封されている。

同封したという「月桂樹」の葉は、今もそのまま封筒に入っている。

この手紙の封筒の裏に青稲は五つの俳句を鉛筆で書いている。彼が逸蒼から手紙を受け取ったのは四月五日頃で、それから十八日に亡くなるまでに作ったっもので、彼の最後の句となった。

 

   いたむ身体をベッドに小鳥の歌のリズム
   
独り病み友よりの手紙を幾度読みしか
   
病床に臥し友の顔を空に画いて見る
   
唯々やせた我が手を見つむるのみ
   
嗚呼ホントのビーヤを飲んでゐる

 

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青稲から友人への願状  昭和 8 年(1933
   1. 友人
   2. 下山         遺品の中にある
   3. 波多
   下山逸蒼死去の際も波多師が世話をしたので、波多師が所持していた。

青稲への手紙      昭和 8 年(1933)
   1. 野々口
   2. 友人         遺品の中にある
   
3. 下山

 

死亡通知 〈新聞記事

      北米俳壇の中堅  佐藤氏死亡 (五月十九日)
 北米新俳壇の中堅として俳道に精進し、知名の「青稲」こと青森県人佐藤豊三郎氏は、本年早春より心臓病を患い、ス市郡立病院に於いて専ら加療中なるも最近病状昂進して、遂に昨十八日午前九時病院にて永眠した。氏は年久しくチーコに於いて米作に従事し欧州大戦当時は、米作者として経済的にも成功を収め、同地方には知人も多い。葬儀は友人相談の上、ス市において執行される。

      俳人佐藤青稲氏 遂に須市で永眠
 
王府湖畔社同人中で放浪詩人として知られた青稲こと佐藤豊三郎氏(青森県人)は、昨年アラスカへ二度目の旅から帰って地方を転々就働して居たが、近く腎臓炎を患い、須市ゼネラル病院に入り、去る十八日朝ついに死去した旨、同地の日本旅館主西本氏から王府求道舎の波多師へ連絡があった。同氏は王府には僅か二年ほど住んでいたが、櫻府地方には十年以上の古老との事故、生前の知己はこの際名乗り出てほしいと。当地からは波多、久保瀬の両氏会葬のはずと。

 

青稲を弔ふ     紅人生     (日米 五月二十三日 掲載)

佐藤青稲が死んだ。心臓病に何か余病を併発してひどくスタクトンで困ってる。・・・・・といふやうなことを予ねて逸蒼から聞いてはゐたが、それにしても死ぬとは思はなかった。天命是非もなき次第であるが、今更に人生の無常を感ずる。彼と最後に逢ったのは昨年の八月だったと記憶する。その時彼は生の弾力にはちきれさうな元気さで、アラスカの土産だといって、鮭の鼻っ面の切身を驚くほど沢山呉れた。そして俺はルンペンだから都会は性に合はない、又田舎廻りだといって別れたのが最後である。

青稲は何かしら、俗人離れのした人間だった。北国で育っただけに荒削りな処はあったが、ちょっと風変わりな性格の持主で、古風に形容すれば仙骨でも帯びたと云をうか、ひどく世事にてんたんな処があった。少々、左が利き過ぎるといふので、チッとばかり灰色の空虚を心の隅に感じてはゐたやうだが、それでも明朗な人生観を把握して、いつも明るく、悠々としてゐた。死ぬにはまだ何としても惜しい人間だったが、さればと云って天命は仕方もない。謹んで弔ふ。
      葉桜に遠のいて高し昼月

 

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