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物語 - 一世関係 32 - 外交の危機 ・日系人の苦悩 - 鈴木無弦 |
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排日土地法と日系人 - 竹村義明 | |||||||||||||||
外交の危機 日系人の苦悩 鈴木無弦 大正13 年(1924) 日本が関東大震災より復興の諸問題に混雑せるに乗じ、米国の排日派はこの機会にその目的を達成せんと謀り、突如として一大鉄槌を我が民族の頭上に下した。 米国は欧州大戦の際フランスに二百万の大軍を送り、百六十億弗といふ巨額の国費を消失せるに拘わらず、平和回復後財政の方針宜しきを得て、官民共に経済界の復興に努めたる結果、商工農産貿易共に順調に進み、益々欧州諸国に金権の威力を示し、富強を誇って超然として世界の上に立つに至った。而してわが国に対しては、震災当時深厚の同情を寄せ、全国より二千万弗に及ぶ多額の金品を贈って救済に尽力し、感情もろき我が国民をして泣いて感謝せしめたのである。然るに之と共に他の一面に於いて我が国の被害の予想外に大なるを知るや、にわかに排日運動の気勢を強め、好機逸すべからずとなし、米国全土より在留邦人を駆逐せんと企てたのである。 加州に於ける外国人土地法実施の結果として、土地の所有権及び小作権を失った在留邦人は、是の後の方法として労力を提供し収穫物請負の契約をなすの形式を執りしが、米国最高裁判所の判決に依り、其れも否認され、如何なる名義を以ってするも土地の使用を許さざる事となった。又米国の議会には昨年 (1923) 十二月上旬、排日を目的とする三種の憲法改正法案が提出され、直ちに両院立法委員会に付託された。此の三種の決議案は大同小異にして。大略左の二項より成る。
之れ明らかに米国に於いて出生せる日本児童に対し、その享有せる国籍の既得権を剥奪せんとするものにして、此の立法の精神は、日本人が米国生まれの子女の名義を以って、土地を買い所有権を設定せんとするを防がんとするに在るは疑ひなき処である。吾が在米同胞は人道を無視せる無法極まる排日的法案の為、苛酷なる圧迫を加へられしも、尚良く忍耐しひたすら、その緩和を願って、一歩一歩譲歩し、今は唯最後の望みとして、米国の国籍を有する子女の成長を楽しみつつ子女の公民権・選挙権の獲得の時期を俟(ま)ちつつありしに、之れをも奪はれんとするに於いては全く絶対絶命である。 米国がその文明を以って自ら誇り、自由平等博愛の国と称しながら、人種的偏見を以って差別待遇をなし、国際上対等の地位にある日本民族を下に見て、憲法まで改正して侮辱的排斥を断行せんとするに於いては、是は単に在米同胞二十万人(注・ハワイを含む)の事に非ず。実に我が帝国の国威に係わる重大問題にして、日本外交の危機とも見るべきものである。然るに、此の重大問題に対して日本官民すこぶる冷淡にして、議会にては唯だ二名の代議士の質問に対して政府当局より不徹底極まる答弁ありたるのみにして、また民間に在りては東京に於て添田博士の主宰する日本移民協会の決議文を発したる以外に運動らしき運動を見ざるとは、母国の対外問題に無頓着なるに驚き、憂国の情に堪へざるものあり。 大正十三年一月 鈴木無弦(画一郎) March 1924 Gaichiro Mugen Suzuki 鈴木画一郎著 「 驚き入った 母国の社会」より抜粋
排日土地法と日系人 読 後 所 感 竹 村 義 明 初期に渡米した一世は、大多数が製材所や鉄道の仕事や白人家庭での下働きに従事したが、1900 年( 明治33 年) に入る頃より職種に変化が出て、田舎で小規模農園の耕作を始めたり、町に出て商売を始めたりする一世が増えてきた。初期の一世移民はシアトルを中心とする西北部とサンフランシスコを中心とする北部加州に多かったが、1906 年のサンフランシスコ大地震以後、中部加州〈フレスノ〉や南部加州〈ロサンゼルス〉へ仕事を求めて移動する一世が急増した。それと共に、1910 年頃からのカリフォルニア州における日系人の農業方面への進出は目覚ましかった。一世の多くは日本の農家の出身だから、水を得た魚というのか、カリフォルニアの大地を耕して作物をつくり、広大な農園から大量の産物をアメリカ市場に送り出した。 当時の法律では、アメリカ国籍取得不可能の日本人は土地の取得は出来ないので、一世はこの国生まれの二世名義とか合法的に他人名義で土地を購入した。収穫した作物は法人組織の会社から全米に向けて出荷し、アグリビジネス農産物取引市場でのシェアは、1920 年頃になると米人同業者の脅威となる驚異的な上昇を遂げた。しかし、それはやがて彼等並びに同調者に卑劣な日系人圧排斥と日系農家追い出し工作へと向かわせた。この排日風潮に輪をかけたのは日本政府と軍部のアジアの近隣諸国への利権拡大政策だった。しかし、アジアへの経済的進出を計るアメリカとは、歳月の経過と共に衝突を避けられなくなり、この日米関係の悪化は一般市民に日系人に対する悪い感情を持たす結果となった。 加州では1913 年に加州議会で最初の外人土地法(別名・排日土地法)が制定されて、帰化不能の外国人(日本人・支那人、東インド人)は農地の賃借権(リース)を三年の間だけ許可されることになったが、1920 年11 月2日には加州住民による一般投票によって第二次外人土地法が通過した。この規定では、今までの三年間のリース権も奪い取った上に、農地のみならず総ての不動産の所有、保有、譲渡を禁止する残酷なものだった。しかも、これが有権者住民の投票によって決まったのだから、不満を打ち明ける場所は無かった。この苦境を脱するために多くの日系農家は、シェア耕作(地主と耕作者の一世が合意して収穫分配契約)に活路を見出して窮場を忍んで来たが、その歩合耕作も1923 年の議会決議で停止された。同じような外人土地法はカリフォルニアに続き、1921 年3 月にはワシントン州、1923 年にはオレゴン州でも作られた。しかし、この様な悪条件の中にも、日系農家は組合を組織したり、資金を集めて二世名義で土地を購入して持ちこたえた。 1923 年9 月1 日、関東一円が関東大震災に見舞われた際、アメリカ政府や国民から直ちに多額の義捐金が届き日本国民を感激させたが、震災三ヶ月後の12 月にアメリカ議会では日本への援助ではなく、日本からの移民制限と日系二世の国籍まで無効にしようとする憲法改正案が提案されたのである。憲法改正して修正アメンドメントして、二世から国籍まで取り上げて、日本人の血のある者から永久に土地所有権を根こそぎ引き抜いて日系人の農産企業を再起不能にしようとする胆魂である。帰化不能の日本人一世は帰化できないので土地は持てないが、一世は二世の名義で購入したり保有するので、二世の市民権を無効にするか又は取り上げようという訳である。 アメリカには建国時代から「WASP 」 と言う排他主義思想があり、その英語の頭文字の通りアメリカは(White 白色、Anglo Saxon ヨーロッパ北西部アングロサクソン系人種、Protestant プロテスタント)の国だとして、皮膚の色、人種言語、宗教の異なる他国人を排斥してきた。1920 年代に農業方面で日系人の進出が自分達の損得に関わる経済問題になってくると、常識では考えられない方向へと発展した。野心政治家は、排日の風潮を扇動して選挙での得票をねらう道具に使った。彼等は攻撃の標的をはっきりと日本人に定めて、土地所有の根本となる「国籍と帰化権」を国会にまで持ち込んだ。 国会でも普通の議案は、過半数得票が多数決となるが、憲法修正案提出には議会の三分の二の賛成が必要であり、二世の市民権に関する問題で法案通過の見込みは薄かった。日系人の願い通り、1923 年12 月に上院、下院の Judiciary committee 立法部会から提出の憲法改正議案は議会を通過しなかった。しかし、議会でこの問題が持ち出されたという事は、如何に排日気運が根強かったかという証拠であり、在米日系社会の憂慮の程が計り知られる。新移民法もこの時に討議されたのだろう。日本からの移民に関して、外交官、聖職者、国際商人の他は、一切入米を禁止する「排日移民法」〈正式名称は新移民法〉が可決され、翌年の1924 年7 月1 日から発効した。 頼るべき故国日本の腰の弱さに、在米の一世は失望の日々を送った。そして、それはやがて諦めへと変わって行った。世界中からの移民の国・アメリカに住んで同じ移民でありながら、欧州や他の国からの移民には制限がないのに、日本人は「帰化不能の人種」と決められて、不動産に関して最悪の取り扱いを受けるに至った。日本が明治中期より採っているアジア諸国への進出政策は、アメリカのアジア政策と相容れず、外交上の日米関係の悪化は一般市民の日系人に対する排斥へと繋がってきた。日本政府は「アメリカ政府の日本に対する反対や妨害を避ける為に」、アメリカの一世を犠牲(置き去り)にしていると感じた一世は少なくなかった。このように、内外両面からの理由により在米日系人の苦難の日々は続いた。 アメリカ生活を諦めて日本に引揚げる家族もあったが、なおもアメリカに踏みとどまって「アメリカに永住しようか」と思う人も少なくなかった。その理由はやはり「子供」と「アメリカ生活」である。いやな目や排斥に会うこともあるが、アメリカ人は悪い人ばかりでなくて親切な人も多いし、日本にくべるとアメリカは進んでいて、日本では珍しい電気製品、ラジオ、ミシンなども手に入る。「アメリカ生活の良さ」は日本と比較にならない。不利な土地法があっても子宝の子供ができると、お金さえあれば土地も買える。精出して働けば、お金も少しは残る。日本を訪問して帰った人から、日本での生活は思ったほど容易ではないし、英語育ちの子供は日本では苦労する話を聞いて、多くの一世は働けば食べていける見込みのあるアメリカに住む気持が日増しに増した。そして、多くの親は日本に勉学のために送っていた子供を呼び戻した。 在米一世は、アメリカを目指してやって来た他国の移民の中に生活して、自分がこの国に来ている意義を考える時、自分もこの恵まれたアメリカ・チャンスの多いアメリカに来ている一人であることを自覚した。そして、一世たちは「今は苦しくても、ここは踏ん張り時。それ ヒトフンバリ! ここは我慢のしどころだ。それ、もうヒトフンバリ !」と頑張った。 一世パイオニア資料館
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一世パイオニア資料館 - isseipioneermuseum.com - 2013 |