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物語 - 一世関係 28 - 所懐を述ぶ - 鯵坂愛助 |
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所懐を述ぶ 鯵坂愛助 千九百二十九年夏 アメリカの土を最初に踏んだのは、もう二十数年も前だ。十九世紀の瞭たる欧州の文明が漸やくゆきつまらんとして、二十世紀の暁にアメリカ新大陸の文明が、その翼をひろげかけた頃であった。露、独、英などの列強が、各々彼等の世界政策をかかげて、東欧に、亜細亜に、アフリカに、その資本主義的、軍国主義的魔手を延ばして、彼らの領土を拡大し、国利を保護しやうとあせってゐた。その間に介在して、欧州の出店のやうになってゐたアメリカは、自由、平等、博愛の三大綱目をかかげて、所謂モンロー主義を打ち出して、他国の領土を冒さぬ代わりに、他国から干渉されたくないと提言し、世界人類の平和の為めにわが国のみは立つ資格があると云った風に構えてゐた。が、ルーズベルト大統領が、その伝統のアメリカ精神のもとに、日露戦争の講和を牛耳って以来、アメリカも国際的に目ざめ、進出せざるを得ない事情がからんで来た。そして世界各国の国民、民族の寄合世帯であるところの米国が、その優勢な民族的運動が、遂に排他的運動をまき起こす結果となり、自ら選ばれた民族である如く自惚れてる白色人種が、リンカーンの依って解放されたと云ふは名ばかりの黒人に対して永久の排斥心を持つ如く、あらゆる有色人種に対して偏見を抱くやうになって来た。最初に支那人の大排斥が行はれ、次いで日本人の排斥となってきたのである。 支那人の排斥が十九世紀(千八百年代)の終わり頃から二十世紀(千九百年代)の初頭にかけて約二十年の間に行われた。彼らにとって代わった日本人は、それから間もなく例の学童問題に依って千九百七年に火蓋を切られ千九百二十四年七月一日を以って、殆ど絶対的排日立法を見たのであった。この約二十年間にまき起こされた排日運動の真中に、私は生活してゐたのである。この間にアメリカに在留して日本人は約十五六万と称せられた。大体に於いて、十九世紀の終わり頃最初の移民が行はれてから、学童問題の起こった頃までを第一期移民時代と云ふことが出来やう。そして千九百十三年の加州に於ける日本人土地所有禁止案の排日法が現れる迄を第二期移民時代と云ふことが出来る。第三期移民時代は、欧州大戦が勃発して、やがてアメリカものの渦中にまき込まれた時代で、第四期は千九百二十年の加州に於ける排日議員フイランを中心として捲き起こされた排日運動から、二十四年の絶対排日法までで、第五期をそれ以後と区分するのが、最もわかり易いと思ふ。そしてその第五期時代は、第一世の気力漸く衰へかけて、第二世の問題が漸く真面目に論議された時代で、現在はそれである。 そこで、その第二世の問題に到達するまで、在米同胞が如何なる受難の歴史をくり返して来たのを間単に回顧してみよう。 第一期移民時代―――幕末に太平洋の洋上で難破した漁師達が、偶然アメリカに漂着したのは、日本人交渉の曙である。そして、その後千八百五十三年(嘉永六年)ペリー提督が浦賀の湾を訪れたのが、日米両国の国際的交渉の曙であった。その後、万延元年の遣米使節となり、タウンゼント・ハリスの駐日領事となり、維新の革命が急激に遂行されて、世は明治の聖代に入ってからも、日本は米国から基督教的精神を基調とした文化を学ばされたのであった。そして留学生派遣となり、学僕的労働者の渡航となり、更に労働者の渡米となった。日清戦争がすんで日露戦争となるまでに、太平洋沿岸には約二三万の同胞が移住したのであった。そして、日露戦役後海外発展の標語が全国的に叫ばれると、戦争で経済的影響を蒙った社会の各層から吾も吾もと渡米熱が嵩じ、茲に一大移民運動がまき起こされたのであった。一方、米国西北部は、その資本主義的発展の初歩に入った頃で、労働者がいくらあっても足りなかった。日本人労働者の歓迎されたのも無理がなかった。が、その資本家から歓迎された廉価な労働者は、やがて、賃金をより多く資本家から取ろうとする労働組合員の仇敵とならざるを得なかった。茲の於いて労働問題が発生したのも偶然ではない。機を見るに敏なる野心政治家達は、早くも労働者の投票を集める為に日本人排斥の気勢をあげはじめた。そしてハワイ移民転航が一般に注視されると、違った方面から排斥を続け、即ち教育界から所謂学童問題が論議されるようになり、その交換条件として、例の有名な紳士協約が締結されたのであった。 この期間を第一期と仮に称するのだが、移民時代としては混沌期で、何ら訓練のない日本人が最初に米国へ渡ってあらゆる赤毛布と、醜態を晒した時代でもあった。一方に、真面目な労働者、学生、商人、伝道家等もあったが、他面には醜業婦、無頼漢も横行した。そして殺伐な時代相がそこに描かれたのであるが、しかし、排日運動が漸く起こってくると共に、だんだん日本人の悪い方面も削られるやうになって来た。 第二期移民時代――― 紳士協約で、合法的でないと入国出来ないと云う頃には、日本人もかなり米国の事情に馴れ、労働も商業も漸く緒についた傾きであった。そしてシャトル方面では、大規模な鉄道人夫、ソーミル人夫、キャナリー人夫等の募集が行われ、モンタナ、マカテオ、アラスカと言った方面に何百人宛の組で人夫が送られた。これらの人夫によって、日本人街の商売も繁盛し始めた。又、農業方面、漁業方面にも日本人の堅実な地歩が固められかけて来た。殊に加州の農園は、日本人なくては耕作出来ない位にまで発展して来たのである。と、この時代に起きてきた排日運動は勿論加州を中心としてであるが、今度は廉価な労働者に対する問題でなくて、農業家・事業家として発展する日本人に対する妨害運動であった。第一期には、このまま日本人を放任しておいたら、西部アメリカではアメリカ人の労働者が生活できなくなるだらうと叫ばれたが、第二期には、このまま日本人の発展を黙認してゐたら、やがて加州の豊穣な土地は日本人によって支配され、美はしき加州は黄色人種の王国となるだらうと云ふ、つまり黄禍論が盛んとなって来た。その偏見み満ちた与論が、やがて加州の日本人土地所有禁止案となって、日米国際関係の上にも可なり深刻な波紋を描くやうになり、日本が他日の日米戦争を予想し、米国が太平洋進出と亜細亜政策に腐心し始めたのもこの頃からであった。が、在留同胞としては、かなり生活の安定も出来、将来の希望も確実となったところから永住的基礎を定めやうとして、妻帯するもの、家庭をつくるものが、日に月に増加し始めた。日本人の児童が、ぼつぼつ生まれ始めたのであった。そして、その家庭をつくる方面として日本観光団が組織され、短日月の間に帰国して妻帯し、再渡米する風習が作られ、私はこの間にあって、それ以後も十数回の母国訪問団をつくって日本に往復した。これは、海外に発展するのにはどうしても、永住的でなければならない、それには家族と共にあると言ふことが最もゆい条件であると思ひもし、又一般の気風もそこに向いて来たからであった。そこで、在米同胞の結婚時代が、ある一面に於いて、第二期及び第三期の特徴だとも言へるのである。 第三期時代―――加州に於ける排日問題も、土地所有禁止案が通過すると、しばらく小康を保ってゐた。日本人は農業方面に漸く築き上げた地盤を根底から履されたので、丁度蟻がその穴を掘り返されたやうなものだったが、堅忍不抜の精神をもった同胞は、更に他の合法的手段で益々発展し始めた。同胞間の事業経営の為にも労働者不足を告げるやうになって来た。ワシントン州は加州と事情が違って、また農業上の排斥はなかったが、しかし、一般に排日的気流が濃厚となって来た。さう斯うしてるうちに、おしつまった欧州では、セルビヤの一青年が墺国皇帝に投じた一爆弾の為に、世界大乱の火蓋がきられ、人類が未だ曽つて経験しなかった大惨禍が来たのである。日本も間もなく独逸に宣戦布告をした。モンロー主義を持してゐた米国も遂にウイルソンの所謂人道の為の宣言が発せられた。即ち、千九百十四年の大戦勃発から十七年の米国参加までに、米国の産業が著しく発達し、世界の富が米国に向かって翼をのばして来た。その恵まれた時代に、在留同胞が着々事業を発展させたのであった。米国が大戦に参加すると、形式の上では日本と連合軍であった。共同の敵の為にと言ふ声の下に、今までいがみ合った旧米人の感情も表面的には融け合った。そして在留同胞は、米市民と同じく軍国アメリカの為に出来るだけ以上の援助を怠らなかったのであった。ところが、シベリヤに於ける日本軍とアメリカ軍との感情の衝突が、やがて在郷軍人会員をして、全国的に日本人の軍国侵略主義の曲解を宣伝せしめ、非常な悪感情を一般米人に植えつけた。一方、在留同胞は好景気に恵まれて、巨万の富をつくったものがざらに出来、この調子で行ったら大丈夫と思ってるころに、戦争もカイゼルの逃亡と共に一段落をつげると、今まで圧してゐた排日運動が再び激発して来た。威力ある戦争直後の在郷軍人会を背景として、又労働団体を背景として、猛然として起きてきた運動であった。第二期以後妻帯者が激増した結果、日本人の社会は今や出産時代であった。排日の巨頭フヰウンをして、日本人は兎のやうに子供を生むと悪罵されたのもその頃であった。そして写真結婚禁止もんだいとなって、しばらく平静だった日本人の感情が又も険悪になり始めたのであった。そして一般的排日の感情が益々高調され、それがために加州では一般投票までやると云ふ騒ぎであった。戦争が終わって、欧州が極度に疲弊したけれど米国は元気だった。日本は経済的に一大打撃を受けて、上下共にしおれ返った。在米同胞は、この間に立って、如何にすべきかの道を自ら講ぜねばならなかった。そして、日本人会などの活動もあったが、大勢には打ち勝てなかった。排日法案が悠々として議会で通過するのを見てゐるより外なかった。 第四期時代―――学童問題以後、殆ど三四年毎に排日運動が新しい問題を掲げて、在留の日本人に迫って来た。それは四年ごとに行われる議員選挙に、新しい立候補者や従来のゆきがかりの排日議員たちが、くり返しまきかえし、日本人いじめに余念が無かったのである。米国全体としては太平洋上に於いて日本と事を構へる日米戦争の夢物語は、両国民の感情の底にかくれた問題であるが、いつかは実現するものと覚悟してゐた。しかし、両国の衝突は東洋問題、つまり支那問題から捲き起こされるものである。片々たる在米同胞いじめの内政的問題をもって、日本は戦争を売ってくるものでない。仮に、それが口実となったとしても、世界は日本に同情をもたないであらう。そして継子虐めが年々深まってゆくのであった。土地所有禁止法令が、借地禁止法とまでなって、日本人の農業家を全滅させやうと計ったのが、千九百二十年であった。そして、市民権もなければ、内政的に何らの力のない日本人は、手をもがれ足をもがれ、今や首まで締めつけられたのであった。かくして、日本人の最も得意とした農業経営が根本から覆されたけれど、日本人は生きねばならぬ為にあらゆる合法的手段を講じて経営の手をゆるめなかった。しかし、大勢は既にどうにもならなかった。日米両国の間には、その都度いろんな論議が交わされたが、米人のこの根強い排日運動に対して、日本内地人は何ら移民政策的意見を持ってるわけでなく、ただ時々は起こってくるこれらの運動に対し、一時的に感情を激発させるばかりで、それが三ヶ月も経たぬうちに、けろりと忘れ勝ちであった。政治家に真面目に在米同胞を思ふ人なく、国民にこの問題を如何にすべきかを考える人なく、外交官はただ時々の政府の定見なき交渉の走り歩きを勤めたばかりであった。このやうにして在米同胞は、殆ど孤立無援の姿で、受難の月日を履んで行ったのである。母国が、この十数万の海外生活者の為にどんな利益を得てゐたかは、この際一寸述べるならば――― 正金銀行が千九百十七年から二十二年までの約五年間に、在米同胞の手から母国へ送金した額は、年々約二千万弗の現金であった。その他、住友銀行、米国郵便局等を通じて送った額はわからないが、少なくとも一千万弗を下らないであらう。また千九百十年頃から数十組の母国訪問団が組織されて日本を観光して一人平均一千弗の現金を消費して来たとしても十数年間に於ける総員が一万人以上にのぼってゐるのである。その額も大したものであった。日本は一方人口問題で悶いてゐるその問題の一部を解決した上に、一年間、殆ど一億円に近い利益を在米同胞から得てゐたのであった。貧乏な日本にとっては、これは考えなければならぬ大きな問題であったにかかわらず、国家百年の将来を思ふ人なく、在米移民問題も第四期に入るまで殆ど無力の外交をやって来たのである。 そして世界一般が戦争後の大不景気に出遇した。土地所有や借地を禁止された在米同胞社会の上にも殆ど挽回できない経済難の時代が来た。各方面の事業が、ばたばた倒れ始めた。日本の資本家達が好況時代に、争って支店を設けたそれらの商社も、見る影もなく跡をたった。経済不況が、世界人心をして緊縮政策を思はしめた。この時に当って、大統領ハーデングは軍備縮小会議を世界に提案したのであった。そして、千九百二十一年十一月,日英米の三国を中心とした華府会議が開催された。 将来の日米戦争を仮想の上に於いた華府会議は、両国民にいろんな暗示を与へた。が、日本の経済難は最早それらの夢物語を放xしなければならなかった。そして、所謂、五・五・三の比例で日本は海軍国として第二位に立つやうになった。米国は最早日本は恐るべき仮想敵国でなくなった。日本に対する悪夢が一掃されて終わった。東洋問題もこれから自由に口にすることも出来て来た。もう斯うなったら在米同胞なんか瀕死の状態に陥れてもよい。首までしめつけたのだから殺したっていい位に、図に乗り始めた結果、千九百二十四年の日本人移民絶対禁止の最終的法案が議会を通過したのであったが、今まで二十年近く軟弱外交のみに低頭して来た日本は、この最後の事件でも埴原大使の首を斬って、米国の思ふままを通さなければならなかった。 日本では、排米運動がまき起こされた。然し凡ての斯うした日本の運動は、ただ感情的で何ら理論的実際的でなかった。だから、一年とその運動が続かないうちに、日本は上下にわたって殆ど米国化したのである。つまり震災復興の凡ての形式が、その範を米国にとると言った調子で、東京・大阪の如きは外形の上に於いて、米国の属領の如くさへ見られるあらゆる流行が、米国の模倣となって来た。 この第四期をもって在米同胞の第一世が終わったと見てさしつかへがないのである。今日残存の同胞は、今日までの受難同胞の延長に過ぎない。そして残存同胞の平均年齢は最早五十歳以上であらう。この間に、多数の人物が非土の墓に入った。又、志を果たさずして帰国した。金をためて小成に安んじて帰ったものもある。斯う感じて来ると、現在の在米同胞の影が非常に薄く思はれるのであるが、よく見ればそこは新しい光明が彼らの上に立ち上がってるのを見るのだ。それは第五期をもってするのである。 第五期時代―――千九百二十四年以後をもって第二世時代の初期と言っていいのである。つまり、第一世は、二十余年の奮闘努力とその後ろ盾となるべき母国政府の背景が常に軟弱であり、それにアメリカ自体が世界的にあまりに急激に進出発展した為、不幸な受難の一生を終わったのであるが、ダーウインの言ったやうに一粒の樫の実の中に将来の大森林がある。即ち、第一世の第二期時代以降、私達の大いに奨励した結婚時代が、やがて出産時代となり、更に中学大学時代となった。彼らは日本民族の血の中から生まれ、父母が多年受難の生活の中から生まれ来た将来の一大民族の先駆者達である。彼らは、彼らの父母が異国人として排斥の的となって来たが、彼らは今や北米の地上が彼らの故郷として、そして憲法でゆるされた市民として立派に活動できる資格と天分を生まれながらにして得て来たものである。彼らの将来は凡て未知の将来である。しかし、ここに於いて私達第一世が苦難の一生を顧みて、彼らに残すべきものは 「わが愛する子孫よ、汝達はアメリカ市民として、将来はアメリカの地上で繁栄してゆくだらう。汝等の将来には必ず祝福があるだらう。が願わくば、汝等の祖先はあの東洋の一隅に三千年間、光輝あるある島国を護って来た大和民族であることを忘れてくれるな。大和民族は三千年間、一大家族主義のもとに一人の天皇を父として秩序ある生活をして来た他国に比類のない気風を持った民族なんだ。汝等は、今後アメリカ文化の上に生育してゆく上にも、汝等の血の中に流れてる日本人の最も優れたものを、最も力強く発揮して世界人類の為に貢献してくれ」である。 私は二十余年間、第一世としてあらゆる生活をして来た。そして第一世の苦難の生涯から生れ出た第二世に対する希望を何らかの形で残したいと思ってゐた。この片々たる記念帖は、一世が将来の二世に残す遺産の一つとして編纂したものである。二世諸君は他日、その父母が受けた苦難の歴史とは全く違った、一市民としての晴れやかな生活を営む時代に、この記念帖を紐解くならば、この片々たる帖の中に無限の記念が残されてることを発見するであらう。昭和皇帝の御大典を記念として、これを編纂した理由もここにある。旧友の姿を見、幼少時代の背景を見、そして苦難の姿を見、そして苦難の中にも慈愛にあふれた父母の真情を見られん事を。写真帖発行に際して、平生からの私の所感を述べてみたのである。 お わ り
読 後 所 感 竹村義明 上記の「所懐を述ぶ」は、ワシントン州シアトルで 1929 年、昭和四年一月五日に昭和天皇御大典記念として出版された「米国第二世写真帖」(鯵坂愛助編纂兼発行 415 ページ)の序文である。その中で蝦坂氏は1929 年までの日系人史を四期に分けて簡潔でありながら要領よく纏めている。日系史に興味のある人や研究者には是非とも読んで欲しい。 筆者、鰺坂愛助(あじさかあいすけ)は鹿児島県出身の一世。シアトルのダウンタウンに事務所を持つビジネスマンで、花嫁連れ帰り観光団(嫁取り観光団)、故国見学訪問団、日系人紹介の各種写真帖の出版などを手掛けた。1941 年日米戦争勃発と共にFBI に拉致されて抑留所に送られたが、交換船で日本に帰った。 このアルバム「米国第二世写真帖」は、アメリカ本土に於ける日系社会の構成の初期段階を目の当たりに見せてくれる貴重なもので、その意義は大きい。「独身」から「結婚して家庭を持つ」という「アメリカ定住、アメリカ永住」が視野に入ってきた証しを見せてくれる。写真帖を開けば、二世は幼児が多く、ハイスクール生徒も少ない。彼がこれより13 年前の1916 年(大正 8 )に出版した「皇太子殿下御成年記念 皇国臣 民写真帖」は、乳飲み子から幼児が多くて10 代の青年男女はごく少数である。三世はまだ生まれていなかったらしく、入っていない。アメリカ本土における二世の出生は1915 年から1930 年が断然多い。 この写真帖は、その名のごとく写っているのは子供(二世)ばかりだが、この子供達には一世の親たちがいた。しかし、この時代の日系社会には結婚相手がなくて結婚できなかった一世男子も多かった。日本政府が1908 年にアメリカと日米紳士協定を結んで日本からの一般人の移民を閉ざしてからは、渡米出来るのは日本に残してきた親族(妻子など)と写真結婚の女性のみになった。更に1920 年に写真結婚が禁止になり、訪日して結婚して米国へ同伴して帰国することが決められた。しかし、それも1924 年以後はできなくなった。ということは、この写真帖発刊の1929 年頃には、将来同じような写真帖ができても、そこに入れて貰う子供を持つ事ができない独身の一世が多かったということである。 1924 年の排日移民法ができてからは、あらゆるツテを頼ってアメリカ生まれで日本に住む二世の女性を捜し求めた。彼女たちはアメリカ市民なので、入国可能だったからである。しかし、日本に帰っていた二世女性の数には限りがあり、アメリカ在留の一世男子の結婚は絶望的だった。1930 年のサンフランシスコの桑港日本総領事館の調査によると、例えばフレスノ、サクラメント、サンフランシスコ桑湾、モントレーの四地方の在留邦人の男女別人口は次の如くであるが、その男女偏重傾向は他の地方も同じようなものである。結婚する日本女性が見つからず、白人との結婚が法律で禁止されているこの国で、多くの一世は一生独身を余儀なくされた。 フレスノ 男 1359 女 946 日系史については、日米の学者や研究者による多くの書物があるが、彼の文章には他の人が真似ができないものがある。それは彼自身が明治30 年代に渡米の一世で、実際その歴史の中に生きた人だからだ。文中に排斥、受難、苦難を示す表現がくり返し出てくるのは、その中を生きてきたからに外ならない。 1929 年といえば、世界的な大恐慌の始まりであり、アメリカ日系社会では排日土地法や排日移民法などがあって日本人排斥の空気濃厚な時期である。アメリカにおける日本人排斥の主な理由は、根強い人種偏見とカリフォルニアや西部諸州での日系人の農産業分野での業界での飛躍的な進出であるが、それに加えて日本の採った軍国主義的なアジア政策があった。満州や中国に同じような利害関係を持つアメリカは日本の進出を快く思わず、険悪な日米外交関係を生み出す結果となり、それが在米日系人の上に悪影響を与えたことは明らかだ。日系人にとって暗い歳月は、この写真帖の出た1929 年の後も続いて、1931 年に始まった満州事変、1937 年の支那事変、1940 年の日米通商条約の破棄、1941 年の太平洋戦争へと展開し、良くなる気配が見えないどころか逆方向へと一直線に進み、苦難の連続となった。しかし、この写真帖を開いて、幸せを願う親の愛情を一身に受けて育つかわいい子供の姿を見る時には、どこにもそんな暗く悲しい歴史の蔭は見えない。 September, 2013 www.isseipioneermuseum.com
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一世パイオニア資料館 - isseipioneermuseum.com - 2013 |