Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - 一世関係
20 - 日系人戦時立ち退き70 周年 - 竹村義明

日系人戦時立ち退き 70 周年 - 竹村義明

2012 年 3 月 31 日

昨日(2012 年 3 月 30 日)はベンブリッジ島 Bainbridge Island の Eagle Harbor 波止場から1942 年 3 月 30 日、200 人あまりの日系人がフェリーで「戦時強制立ち退き第一陣」として立ち退いた70 年周年記念日である。シアトルの日系新聞にベンブリッジ島で記念行事があると言うので行ってみた。

午後一時半から Bainbridge 資料館、 図書館、イチゴ農家、植木屋、メモリアルパーク、小学校の六箇所で次々と展示や催しがあった。しかし、どこも参加者は少なく特に日系人は関係者数人だけで、シアトルからは日系人団体や市民の参加もなかった。当日最後の催しは午後六時からサカイ小学校(小学校五六年生)でシンポジアム開かれ、立ち退き経験者の日系人六名による体験発表があったが、聴衆はわずか 50 名ほどで日系人は 3 名だけだった。立ち退きと収容所入りを批判的に捉える傾向があった中で、キャンプ経験者の言葉「当時まだ 10 代の子供でしたが、キャンプは悪いところではなかった」には重みがあった。

当日の行事に参加して、日系人戦時立ち退きについて日系人も一般市民も関心が薄いことに驚いたが、最大の失望は 70 年前の出帆時刻に Eagle Harbor で記念式典 Commemorative ceremony があるかと期待していたが、それがなかったことだ。

イーグルハーバーには「二度とないように」をモットーにして記念メモリアルパークができたが、歩道に沿った看板パネルには「軍による日系人立ち退き通告でわずか一週間内に手に持てるだけの僅かの物を持って立ち退かねばならなかった」と書かれている。パークを訪れる人の一番初めに目に付くパネルに、このような誤解を招く不十分な表現があるのは残念だ。これでは、一般社会からの賛同は期待できない。  

「わずか一週間の通告で、島の日系住民が一人残らず、強制立ち退き Forced evacuation させられた」という表現には、次のような補足が必要だと思う。   

1941 年 12 月 7 日のパールハーバー以後、敵国人とみなされた日系人の西部沿岸からの内陸への立ち退きを叫ぶ世論は日毎に高まり、1942 年 2 月 13 日には西部選出の議員は連名で大統領に書簡を送り、日系人強制立ち退きを要求した。日系人を代表して、全米日系市民協会は立ち退きの際には暴徒から護るために、警察では不十分だから軍隊の出動を求め、立ち退き先の収容所での生活の保証を得ている。

3 月 3 日に軍部より西部沿岸に住む全ての日系人立ち退きと立ち退き区域が発表されて、区域外への自由立ち退きをしない者は近く強制立ち退きがあることとなった。そして、3 月 23 日にベンブリッジ島の日系人の立ち退き期日は一週間後の 3 月 30 日とする通告が出た。そして、3 月 30 日までの自由立ち退き期間中に自由立ち退きをしなかった日系人は、通告通り強制立ち退きで、3 月 30 日に島を離れた。立ち退きまで、少なくとも四週間の期間があった。また、乗船時の荷物は手持荷物だけだったが、この外の荷物は別送荷物として目的地のマンザナ転住所に送られた。  

正当な理由なく、戦時ヒステリアと人種差別による強制立ち退きの不正を「二度とないように」と願う啓蒙運動は、この不正の被害に遇った日系人が先頭に立って進めることは至当なことであるが、ベンブリッジの日系人だけでなく一般市民も参加して、これに当って下さる事は誠にありがたい。願わくば、この活動が正しい情報に基づいて、今後益々進められるよう期待する。

竹村義明

一世パイオニア資料館 - isseipioneermuseum.com - 2012