Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

前のページにもどる

物語 - 一世関係
16 - インカーセレーション INCARCERATION 投獄 監禁 - 竹村義明

インカーセレーション INCARCERATION 投獄 監禁

2010年12月          竹村義明

最近、日系人の転住所 (relocation center) への戦時立ち退き (evacuation) に関して、incarceration という英語を安易に使う風潮があることを憂う。何故ならば、それは辞書には「投獄」とか「監禁」と訳されているし、しかも、それを使う人が転住所生活を経験した人達でないからである。

アセンブリーセンター(集合所 assembly center)や、リロケーションセンター(転住所)への収容が始まる前に、日系社会の指導者と要注意人物は開戦直後、FBI や警察に連行されて司法省管轄の全米四ヶ所〈ニューメキシコ、モンタナ、テキサス、ノースダコタ〉のインターンメントキャンプ(internment camp 抑留所)に収容されたが、この人達(インタニー)に関してはインカーセレーションという言葉を使っても間違いとは云えないと思う。しかし、ほとんどの日系人はこの抑留所には入らなかった。

日米戦争が始まって三ヶ月後から、西部沿岸の日系人十二万人あまりが、単に日系人であるという理由で罪状認否の申し立てもなく、住みなれた住家からの立ち退きを強いられ、牛馬を引き回すように七州の十ヶ所の転住所に収容された。マンザナ、ツールレーク、ヒラ、ポストン、ミネドカ、ハートマウンテン、トーパッズ、グラナダ、ジュローム、ローワである。それは、合衆国の歴史に大きな汚点を残す出来事だった。自由と平等を旗印とするアメリカには、起こってはならない事が起こり、日本人の血を持つ者は、屈辱の日々を送ることになった。しかし、この苦難の中にも未来を信じて日本人のプライドを失わず、我慢と辛抱の精神で事態に対処した。

この強制立ち退きの処置に関して、長年にわたる排斥の中に生きてきた一世と二世は、ツールレーク収容所での抗議を除いて、Quiet Americans の名の如く、戦中戦後にわたり政府に対して一丸となって異議を申し立てたことはなかった。時は流れ、1976年頃からJACL (全米日系市民協会)が中心となり、自分たちの親たちが味わった屈辱を晴らすべく、政治的解決を図り連邦議会を動かして Redress Commission 立ち退き補償委員会の設立にこぎつけ、公聴会の開催の末、遂に1988年に歓喜の勝利を勝ち取った。立ち退きは、人種偏見と開戦時のヒステリアと政治的指導力の不備が原因であったと結論付けられ、議会はその過ちを認めると同時に生存者には2万ドルの補償金を支払い、レーガン大統領が謝罪してすべてが決着した。

転住所 (relocation center) はキャンプ (camp) とか、収容所 (concentration camp) と呼ばれることもあるが、アメリカの日系人戦時収容所はナチスのコンセントレーションキャンプとは、質的 に異なっていた。入所者の中には「入獄」とか「監禁」されたという感じを受けた人もあったかもしれないが、それは感情の上だけのことで実際の投獄ではなかった。毒ガスチェンバーの代わりに学校や病院があり、お店や教会もあり、許可を取れば自由に出所もできた。大学入学や仕事を求めて大勢出て行った。事実、閉鎖するまでに約二万人が転住所を出所して新生活を始めている。

1942年2月に軍事区域からの立ち退き命令が出たが、軍事区域からの自由立ち退き期限があり、期限内にカリフォルニア全州、オレゴン・ワシントン両州西  半分、及びアリゾナ州南半分の軍事区域から出て、広いアメリカのどこにでも移れば、収容所に入らなくても良かった。すなわち端的に云えば、「入りたくなければ、入らなくてもよい」道があったのである。そして、入所した場合には、住宅、食料、医療、教育などが政府から無料で提供された。又、転住所内で働く者は、小遣い銭までもらった。収容所に入るまでは、どんなに悪い所かと不安だったが、思っていたほど悪い所でなかったようだ。開戦時、日系人は、リノ、ソートレーク、シカゴ、デンバー、ニューヨークなど西部沿岸以外にも多く住んでいたが、立ち退き命令はこれらの人達には全然関係がなかった。

私は1956年暮に渡米した。日系社会は世代交代の時期で、二世がバリバリやっておられ、一世も老境ながらまだ大勢居られた。両者から転住所には「又行きたい」「楽しかった」とか「そんなに悪くはなかった」というコメントをよく耳にし、「収容所に入れられた」よりも「収容所に入った」とか「収容所に行った」という表現が多かった。「閉じ込められた」とか「監獄のようだった」という言葉は聞いた事がない。一人残らず、立ち退きにより大きな経済的精神的打撃を受けた事は事実だが、入所前に生活に追われたり、借家住まいで育ち盛りの子供のあった多くのファミリーにとっては、その三年間は、骨休みでありべケーションだったようだ。入所前に心配した身の安全が確認でき、生活の不安も解消し、娯楽や教養取得の場もある収容所生活だった。ロマンスの花も咲いた。楽しい思い出を持つたのは、子供達ばかりでなかった。

自由立ち退きにせよ収容所への立ち退きにせよ、それは共に戦争開始による強制立ち退きであった。しかし、この日系人不法強制立ち退き問題は、アメリカ政府が過去の過ちを謝った時点で終了したはずなのに、七十年近い昔の古傷をこすり出すように、過去にさかのぼって問題点を持ち出しての批判はアメリカ社会から反発を招きかねない。一旦、法の裁断が下った問題を非難するのは卑怯であり、民主主義に基づく法治国家の原理に背く。しかも、「インカーセレーション」「入獄」とか「監禁」という表現は、転住所への入所に関しては歴史的事実に反する発言であり、公の場では使われるべきではないと思う。日系人は、今後は前向きの姿勢で、より良いアメリカ社会の一員として生きねばならない 。 おわり( www.isseipioneermuseum.com


あ と が き

「立ち退き」の際、カリフォルニアはどこへ行っても駄目だったが、ワシントン州ではスポーケン、オレゴン州ではオンタリオなど州の東部、アリゾナ州では州北部のキングマンやフラッグスタッフ方面へ自発的に「自由立ち退き」すれば、入所しなくてもよかった。また、当時アメリカは48州だったので、44州へは自由立ち退きができた。

アセンブリー・センター  〈集合所〉は次の16ヶ所にもうけられ、日系人はまずこの集合所に入り、しばらくしてからリロケーション・センターに送られた。

    
ワシントン州   ぺアラップ
    オレゴン州    ポートランド
    
カリフォルニア州   (13)
       
メリスビル   サクラメント  タンフォーラン  スタックトン
       サリナス    ターラック   マーセード    パインデール
       フレスノ    ツラレ     マンザナー    ポモナ    サンタアナ
    
アリゾナ州    メイヤー

リロケーション・センター (転住所)は次の十ヶ所に設けられた。

    
カリフォルニア州 (2)  マンザナー、 ツールレーク
    アリゾナ州 (2)     ポストン、ヒラ
    アイダホ州       ミネドカ
    ワイオミング州     ハートマウンテン
    コロラド州       グラナダ
    
アーカンソー州 (2)   ローワ、 ジュローム
    
ユタ州         トーパズ

インターンメント/キャンプ (抑留所)は次の四ヶ所に設けられた。

    
ニューメキシコ州   サンタフェ
    
モンタナ州      ミゾラ
    
テキサス州      クリスタルシティ
    
ノースダコタ州    ビスマルク 

この抑留所も監獄でもなかったし、転住所より名前は悪く聞こえるが、内容的には大きな相違はなく、中には転住所よりも待遇の良かった抑留所もあった。しかし、入居者が FBI(連邦捜査局)により自宅から強制連行されて拘束されたという意味でインカーセレーション(投獄、監禁、拘束)といえる。

もしも、75年前に起こった日本軍による南京殺戮を持ち出されたら、謝罪も賠償も一切しなかった日本国民は何と応対するのだろうか。国際問題には「時効」が存在するのだろうか。日系人立ち退き補償問題は、完全に満足のいく内容の決着ではなかったが、
相当な補償がなされた事であり、もうこれからは過去の事をアレコレ言うよりも前向きき思考が肝要と思う。

我等の先輩に乾杯

開戦時の「立ち退き」は、日系人にとり、確かにそれは「大きな苦難」であった。然し、それは又同時に日系人に与えられた「大きな試練」でもあった。日系人の真価を試される時でもあった。その打ち菱枯れた状況にありながらも、自暴自棄になったり、泣きわめいたりせずに、じっとそれを我慢して耐え抜いた我等の先輩「一世と二世」に大きな拍手と感謝の言葉を捧げたい。さあ、みんなで「乾杯」「チアーズ」    

一世パイオニア資料館 - isseipioneermuseum.com - 2010