Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - 一世関係
09 - 帰郷 (二) - 竹村 なおみ

帰郷(二)- 竹村なおみ

1993 年 9 月  カリフォルニア州サリナス

豊三郎さんのお骨はいったいどこへ行ってしまったのでしょう。と気がかりな毎日を送りながら、年の瀬もせまり、とうとう新年を迎えてしまいました。そしてやっと私達は、松の内も終わろうとする一月十三日月曜日、再びスタクトンへと向かいました。もう一度正確な記録をたどり順を追っていくことにして、まずサンウォーキン・カウンティ・コートハウス郡裁判所の六階のジェネラルサービスに行き、前年十月に夫が電話で話した女性に会いました。オフィスはちょうど改築、屋内改装中でひっくりかえっていましたが、彼女はとても親切に当時の全てのドキュメントを見せてくださいました。その中で、豊三郎さんに関するドキュメントと言えば、彼の墓標番号と、その場所が書き込まれた地図だけでした。それには墓標約三千五百のお墓が印されていました。豊三郎さんは随分はずれの方に埋葬されていたことが、当時の情景を想像しながら確かめることができました。それにしても3116のCという番号だけの墓標で、何故名前が書かれていなかったのでしょう。きっと身寄りもなく、遺体の引受人もいなかったからかもしれません。

一九八九年、このサンウォーキン・カウンティ・セメタリー(サンウォーキン郡立墓地)の約三千五百の遺骨が、再び火葬にされて、ローダイのチェロキー・メモリアル・パークに移され合同埋葬されたのです。一九八九年の新しいドキュメントには、豊三郎さんの遺骨は再び火葬にされた後、3116のCから10370という新しい番号に変わったことが記されていました。この事実を確かめる事ができた私達は、墓地の地図と3116の C から10370に変更した記録のコピーをいただいて、とても協力的で親切なこの女性に礼を述べ、コートハウスを出ました。それから私達は、お骨の掘り起こしの可能性、またその手続きを調べるため、ローダイへ向かいました。

ハイウエー99号線添いにある美しいチェロキー・メモリアル・パークに着いた私達は、オフィスに行き、ジェネラルマネージャーではありませんが、ダニー・スタンレーという責任者に会いました。早速スタンレー氏に豊三郎さんのお骨が、本当にこの墓地に埋葬されているかどうか調べていただきました。10370の番号で、確かに豊三郎さんのお骨は合同埋葬されていたのです。私はばかなようなことでしたが、一番心配していた質問をしました。「全部の遺骨を再び火葬にする際、本当に一人ずつ火葬にされたのでしょうか。皆一緒にまとめてされたのではないでしょうね」「オーノー、ノー。そんなことはできません。法に反することです」とスタンレー氏は申されました。私は安心しました。そこで私達は、事情をお話して豊三郎さんのお骨を掘り起こし、日本に送り返せるものかどうか、またそうできるようにとお願いしました。

「サンウォーキン郡立墓地から、このチェロキー・メモリアル・パークに移すににあたって、約三千五百の遺骨にたいして、連絡できる遺族には全部知らせたところ、たった一人だけ遺骨を引き取りに来ました」とスタンレー氏は話されました。そして、それらのお骨は、この墓地に地下三段階、四ヶ所に埋葬されており、豊三郎さんのお骨が上層部にあるか、中層または下層部にあるかによって、掘り起こし時間が異なるので、そのレーバーの費用がはっきりわからないけれども、カウンティーの方に手続きをとります、またお電話でお知らせします、というスタンレー氏の言葉に明るい希望をもち、とても誠実で紳士でいらっしゃるスタンレー氏とお別れしました。セメタリーのオフィスを出た私達は、再び合同埋葬の地に行きお参りをして帰途につきました。

それから数日後スタンレー氏から電話があり、カウンティーに掘り起こし許可を得る手続きをしています。それには遺族から何らかの依頼状の様なものが必要です、ということでした。早速、佐藤てるさんに報告がてら、その旨をお知らせしましたところ、東京にお住まいの一人娘でいらっしゃる菊池麻耶子さんから、費用はいくらかかってもよいから、是非、豊三郎のお骨を日本に送ってほしと、代理でお手紙が届きました。すぐにスタンレー氏にカウンティーの許可をとっていただくようお願いしました。そして、その許可が下りたという知らせを受け取ったのは、三月に入ってからの事でした。

いざお墓が、いつでも掘り起こせる事態にあると思うと、私はあまりの責任の重大さに心が動揺してしまい、「豊三郎さんは、美しいセメタリーに眠っていらっしゃるので、このままそっとしておいてあげるのもよいのではないでしょうか。本当に掘り起こして日本にお送りするのでしょうか」という事を「カウンティーの許可がおり、いつでも掘り起こせる」ということとを併せて、再確認の手紙を麻耶子さんに書き送りました。

ところが、その後何故か、麻耶子さんからも佐藤てるさんからも音信がなくなってしまいました。「ああ、きっと豊三郎さんは、あのチェロキー墓地にいらっしゃるのが一番よいことなのでしょう」私は心持ち安心もしました。

三、四ヶ月が経ち、お盆バザーの準備に追われていた私は、豊三郎さんのことはすっかり頭から離れていました七月の末頃、麻耶子さんから再びお手紙が届きました。子どもの夏休みの期間中でしたら、二、三日くらいならば渡米でき、お骨を引き取りに伺いたいという内容のものでした。私は嬉しい驚きでいっぱいでした。それからの夫は、旅行社、スタンレー氏、そして麻耶子三にと電話連絡におおわらわでした。そして掘り起こしの日が八月十七日月曜日と決まりました。

ところが、八月七日、麻耶子さんからお電話が入り、やはり行けないので、お骨は送ってほしいということでした。それならば十七日まで待つこともなく、出来ればお盆に間に合うように送ってさしあげるのがよいのではないか、と早速スタンレー氏に一週間早めて、八月十日に掘り起こし作業とお骨の引渡しをお願いしました。ほんの二、三日の通知でしたが、スタンレー氏は快く引き受けて下さり、カウンティーの係りの人達にも連絡をとってくださいました。

いよいよ八月十日、八時に家を出た私達は十時にスタクトンに着きました。スタンレー氏とは、十一時の約束時間になっていましたので、まだ一時間の余裕があるため、豊三郎さんが入院し、そして亡くなられたサンウォーキン郡立病院に行き、また隣接していたカウンティー墓地跡の現在の様子等をカメラに収めました。

チェロキー・メモリアル・パークには十一時ちょうどに着きました。すでに墓地には、トラクターなどがはいり、掘り起こしの作業準備がなされ、その作業を行う三人の人影も見られました。私達は、オフィスでスタンレー氏と会い、すべての手続きを済ませ墓地現場に行きました。

合同埋葬されている芝生の一角が畳一畳程の大きさで、厚さ六インチぐらいでしょうか、それがきれいに切り抜かれました。その畳一畳程の芝生が取り外されたその下には、なんと、ちょうど靴箱くらいの大きさの茶色のお骨箱がぎっしりと、整列していました。お骨箱にはそれぞれの番号がきちんと書かれた紙が貼られていました。この一角の中に約七百五十のお骨箱が埋められているということでした。私達は持参のお花をお供えしました。10370番号に変わった豊三郎さんのお骨は幸い上層部にありましたので、一時間も要することもなく私達の手にお渡ししていただくことができました。私は掘り起こし作業の様子や、ぎっしり並んで埋められていたお骨箱などを写真に撮り、後日、病院やセメタリー跡地の写真とを一緒にアルバムにして佐藤てるさんに送ることにしました。私達はもう一度オフィスに戻り、経費の精算などをしました。

お骨の掘り起こし手続きをする際も、そして、お骨を引き受けた後にも私達はくどい程、何度もスタンレー氏に、本当に豊三郎さんのお骨に間違いないかということを確かめました。「この番号は本当に3116のCから10370なったものでしょうね。クリメーションは本当に一人、一人されたのでしょうね。全部ひとまとめに行われたのではないでしょうね」「ノー、ノー。一人ずつしました。ですから、それに要した時間は大変なものでした。皆一緒にすることは、法律に違反することです」

このスタンレー氏もカウンティーから許可をとるために、いろいろな手続きと手順をふんでおられたのです。そのご苦労も充分に承知の上で私達はあえてこんな質問をしたのです。とても心配でしたが、やっと本物の豊三郎さんのお骨であることに間違いないという安心感が湧いてきました。スタンレー氏は私達のくどい質問にも、穏やかに応対してくださいました。お昼もとっくに過ぎていました。これから郵便局に行き日本に送るといいますと、ちょうどよい箱までさがしてきてくださいました。心からのお礼を述べ、私達は晴れ晴れとした気持で(きっとスタンレー氏も同様のことと思います)握手をしてお別れしました。私達はもう一度墓地に引き返して、二人でお経をあげ、そして用意していた荷造り用紙にお骨箱を包み、弘前の佐藤てるサンの住所を書き、聞き尋ねながら、ローダイの郵便局に行きました。

確かにお骨が届いたことさえ知らせてもらえれば、どんな方法でもよいからおねがいします、と係り員に頼みました。五ポンド近いこの遺骨がまさか六十年前のものとは思われず、私達が深い悲しみに沈んでいるものと思ってか、世間話をまじえながら、できるだけ安いレートで私達の希望する方法をと、あれこれさがしてくださるこの係り員の人の気持がとても有り難かった。結局、書留エアーメールが一番よいとのことで、それにしていただきました。終わる頃には、かなりの時間が経っていたと思います。礼を言って立ち去る時、後ろを振り向くと長い人の行列ができていて驚き恐縮してしまいました。スタンレー氏といい、カウンティーのお役人といい、そして又この郵便局の人といい、アメリカでこんなに人骨を大事に取り扱うとは、日本だけかと思っていた無知な私は、日本以上ではないかとさえ思えて感謝し、余談ながらまた一つアメリカの良さを知らされた気持ちになりました。

「お前は、思い上がっている。世間の人が見るブランケかつぎの生活者の目でしか豊次郎さんを見ていない。うわべでしか豊三郎さんのことを書いていない。佐藤てるさんのご家族はきっとご立腹だ・・・・・」サリナスを出て、ローダイのチェロキー・メモリアル・パークへ向かう途中、夫から言い続けられた言葉でした。決してそんな目で見ていなかったつもりですが、「申し訳ない。余計なことをしてしまった・・・・」と呪文のような心で唱え詫びながら、豊三郎さんのお骨の掘り起こしと引渡しのため、ローダイへ向かったのでした。本当に余計なことをしてしまったかもしれない。でも子どもをもつ親として、二十一才で勘当したわけでもない息子をアメリカに送りだし、以後二度と再び会うこともなくこの世を去っていかれた豊三郎さんのお母さまの気持を思うと、耐えられない気持でした。お母様だけは、きっと喜んでくださったと思います。また思いたいです。また、いくら立派な美しいセメタリーで眠っていても、誰もお墓参りに行く人もいない、でも郷里のお墓にはきっと誰かがお参りしてくださる、それを思うだけでも私は心休まる気持ちになるのです。

「さようなら、豊三郎さん、さようなら・・・・」郵便局を去る時、小包荷物となった箱を見つめながら、私は何度も心でつぶやきました。郵便局を出て、初めて百度を超えるその日のローダイの暑さが覆いかぶさってきました。でもそれは快くさえ感じられました。

佐藤てるさんから、丁度お盆の八月十六日に豊三郎さんのお遺骨が届きました、とお電話がかかってきました。できたらお盆に間に合うようにと思っていました私達は、本当に嬉しく思いました。また、てるさんは豊三郎さんのお骨を抱いて、「ここがあなたの家ですよ。松の木も昔のままでしょ・・・・」などと話しながら、家のまわりをぐるぐる歩いてまわったそうです。そして、豊三郎さんの「好きだったお酒や、田舎料理を作って仏前にお供えしています」と話してくださいました。

その後のてるさんからのお手紙によりますと、「しばらくの間家にいてもらいましたが、九月七日、お寺さんにきていただき佐藤家のお墓に無事納骨しました」ということです。お手紙には、その時のご親族参列による埋葬のお写真と地元の「東奥日報」の新聞が二日分同封されていました。その東奥日報には「異国の土に五十八年、遺骨故郷の土に眠る」「親族が手厚く埋葬」と大きく写真入で報道されていました。豊三郎さんは幸せ者です。家族の皆様に温かく迎えられて、一九〇四年にアメリカに渡ってから、八十七年ぶりの初めての里帰りでした。何時の日か、弘前の豊三郎さんのお墓にお参りさせていただける日を願っている私です。

終わり



カリフォルニア同人誌「平成」第17号  1993年10月号掲載、同じ題名

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