Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - 一世関係
08 - 妻でもあればと思ふだけ - 清水流芳

妻でもあればと思ふだけ- 清水流芳

渡米当時と今の気持 - タコマ

渡米したのは大正八年(1919年)の六月であった。米国はどんなに善い所だらう、どんなに金の多い国だらう、美しい家に住ひ、味い物を食って、此んな考えを懐いて渡米したのであった。

愈々沙港へ上陸してみて私はがっかりした。壮大な建物も広い道路も美しいルームも皆私の想像した程そんなに立派なものではなかった。

特に私のがっかりしたのは仕事のハードな事であった。それは私が米国へ行けば少しの仕事でうんとお金が儲かるものの様に思って居たからである。

当時私は某洋食店の皿洗となったが当時は未だ景気が善かったので洋食店等とても忙しかった。朝の六時から晩の七時までの間に二時間のタイムを取るのが定まった労働時間であったが忙しいので自ら自分の仕事に追われまいと思へば朝はどうしても五時半頃より行って構えねばならなかった。従ってタイムも取ったり取らなかったりであった。

手を焼く様なソップ湯の中へ手を入れて皿を洗ふとエプロンは、びっしょり濡れる。暑い時分であるから汗は滝のように流れる。時には皿の壊れで手を切る、グラスを洗はねばならぬ、バアン桶、釜類、ナイフ、ホウク等も皆洗はねばならぬ、ポテト、ニンニク等の皮を取ったり亦蒸したりしたのを切ったり、野菜物を綺麗にしたり、とても話にならぬ程忙しかった。

で甘い学生生活に深酔して毎日毎日テニスしたり野球したり遊ぶ事、他に何も知らなかった私は女々しくも泣いた事さへあった。こう云う風であったから当時私は非常に故郷を恋しく思った。夕一人疲れた身を窓硝子に寄せて次第に暮れ行く空を眺めながら人知れぬ涙に袖を濡らした事も一度ではなかった。で当時は私はよく感傷的な手紙を書いては友人等へ送ったものである。

それより花は散りつきは巡り手此処に在米七年今やその最後の月を私は送らんとしている。今私は矢張り其の洋食店のウエターをして居るが、ハードと思った仕事も反って慣れて来るに従って楽になり、窮屈だと思って居た時間仕事も反って善いと思ふ様になった。恋しくてたまらなかった故郷も年の経つに従って忘れて行き近頃では半年に一本か一年に一度位しか手紙を出さぬ様になった。二三年居たらきっと帰らうと思って居たのが故国の生活難を聞く度に余り帰りたくもなくなった。

そして何処かで妻でも拾ふたら一層生活のイージーな米国で呑気に暮らす方が善いとさへ思ふ様になった。(おわり)

1927年1月 北米時事 掲載 ワシントン州シアトル



筆者は父親の呼び寄せにより渡米した呼び寄せ一世でワシントン州タコマ在住。

西北部に来た一世は農園、製材所、鉄道での仕事に就いたが、中には上記のごとくシアトルやタコマ市内のレストランで皿洗いをした人もいた。

日本に帰ろうかという気持が、アメリカに居留まろうかと変わってきたという興味深い文章。1924年制定のアメリカの移民法により、日本からの移民が不可能になったので、アメリカには結婚相手の日本女性は極めて少ない。それ故、日本に住んでいるアメリカ生まれの二世女性が。花嫁候補の筆頭になった。二世は移民法に関係なく渡米できた。

一世パイオニア資料館 - isseipioneermuseum.com - 2010