Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - 一世関係
01 - 日本からアメリカへ (1) - 夏原勢ん

「日本からアメリカへ」前書き - 竹村義明

夏原千代吉、勢んは私の祖父母です。祖父は 1967年 12月 に 91才、祖母は 1979年 10月 に 94才 で亡くなりました。写真結婚以来、戦時収容所への入所以外はシアトル近郊のオーバンにずっと住んでいました。

祖母勢んの遺品の中に、思い出を綴ったノートがあります。ミネドカ収容所に入るころまでが割合まとまってますので、タイプしました。江州弁の表現や漢字、平仮名などそのままです。題名は「日本からアメリカへ」としました。夏原ファミリーのアメリカでの初期

 

日本からアメリカへ - 夏原勢ん

思ひ出を少しづつでも書いたらと思っても、何分目が弱ってすぐつかれるので、なかなか書けませんが思い出した事をぼつぼつ書きませう。


夏原千代吉 (夫)本籍  滋賀県犬上郡久徳村大字久徳

              夏原善三郎、同 たけ の長男

              明治九年(1876 年)六月三十日生

   勢ん  (私)本籍  滋賀県犬上郡多賀村多賀

              古川源蔵(卯之吉改名)同 古登 の長女

              明治十八年(1885 年)七月十二日生



夏原千代吉は明治九年(1876年)六月三十日、滋賀県犬上郡久徳村大字久徳にて父善三郎、母たけの長男として出生。家族は両親のほかに姉(とゑ)と弟があった。 小学校を出てから、親の手伝いで廿才まで家業の農業で百姓をしていました。弟は二人いましたが、九才下の留吉は三才の時に養子にもらわれて行き、四才下の与惣吉は北海道の出稼ぎ先で明治二十九年八月に十六才で亡くなりました。早くから貧乏のつらさをいやというほど知りました。千代吉は満廿才の時、明治二十九年(1896年)徴兵検査に出た。身長五尺一寸八分。日清戦争が前の年、1895年 に終わったので、もう兵隊がいらなかったのか、五尺二寸に二分不足で不合格になったので、家の百姓はきらいだから何か商ひがしたいから満州へでも行こうかと思っていた。

久徳は昔、久徳城があったほどのこの近辺では大きい村ですが、村の南側には彦根を通って琵琶湖に注ぐ芹川という大きな川があって土地も肥え、水の便も良いので、米作が盛んです。村役場、小学校、巡査駐在所、信用組合、お寺とお宮、地蔵堂、タバコ屋、酒屋さん、二軒の雑貨店がありますが、其の他はみんなお百姓さんです。千代吉も父親を手伝って米をつくっていました。農作業のために牛を一頭飼っていました。家の前に小さな畠と燃料の薪のために八重練に猫のひたひの小さい杉山を持っていましたが、それでは生活できないので小作をしていました。毎年地主へ年貢を払っていましたが、生活は楽ではありません。不作の年に、父が地主の家に行って、年貢のことを話するのがとてもいやでした。

丁度其時アメリカ行きの話が近所に出回っていて、隣村一円の大倉清太郎様が英領カナダへ行く若者を九人ほど探しに今帰って居られて、もうすぐ再渡航なさるのを聞いて、自分も行こうと決心しました。多賀の親戚(清水久七おじさん)に頼んで旅費の工面をしてもらい、大倉様にお願ひして一緒にカナダバンクーバへつれてきてもらひました。時は明治三十年(1897年)三月、千代吉は満二十才、数え年二十一才でした。(支度金は頼母子講のお金が落ちた多賀神社の近くの田斉さんから借りたらしい。また、バンクーバへ来る船中では、船員にいつも食べ物を運んでもらっていたという話も親類から聞いた。) 横浜へ出るのに、彦根から乗ればよいのに親に見つからないようにと米原まで中山道を歩いて行って、そこから汽車に乗った。家を出る日が決まって、父親は彦根の駅からつれて帰ろうと彦根で待ち伏せだったらしい。見知らぬ遠い国に行くという息子を案じたのか、それともその頃日本ではどこでも長男は家に残り、弟や女子はよそへ仕事や奉公に出て行ったから反対したのだらうか。独身は千代吉一人で、他の人は妻子を置いて出られた。とにかく千代吉はカナダ行きの決心はかたく、親の反対も振り切って日本を離れた。

カナダ最初の一年は船に乗り込んでサモン、シャケ捕りの仕事をしたり、缶詰会社キャナリーで働いたりしたが、シーズンが終わると仕事がないのですることがなく、皆バンクーバで遊んでいました。一八九六年にアラスカのユーコン河の支
流のクロンダイク川周辺でゴールドが見つかり、そのニュースが翌年にひろがると四十年前の加州のゴールドラッシュの再来だと加州の白人が一攫千金を夢見てどっとユーコン入りしました。大金をもうけた人のうわさを聞いて、気をひかれましたが、ユーコンはまったく知らない土地ですし、そこは食糧不足と物価高、其の上物騒でみんな腰にはピストルをつけて歩くと聞いてしりごみしました。バンクーバーからスチーマー蒸気船に乗ったままユーコン河をさかのぼって行けば十日で近くの大いきな町ドーソンへは行けますが、船賃は目が飛び出る値段ですので、そんなお金はありませんし、ジューノーまで船で行ってからクロンダイクまで汽車がないので歩いて行けば二十日ほども道なき道の山道ときいてあきらめました。日本人の中にも、行くには行ったが命からがら帰ってきたという話は聞きましたが、ゴールドをかついで帰った話は聞きませんでした。(当時ドーソン Dawson は北のサンフランシスコ San Francisco of the North とよばれていました。)

仕事をしなくては生活もできないのでどうしようかと困っていましたが、アメリカには製材所や鉄道の給料の良い仕事があるということなので、明治三十一年(一八九八年)の或る日、危険は覚悟で仲間とヌケボートでシヤトルの近辺のどこかの港に上陸しました。滋賀県の田舎では、カナダもアメリカ合衆国も区別がなくて、村人はカナダへ行く事も合衆国に行く事も「アメリカへ行く」と言って居られたので、アメリカがカナダとは全然別の国であることは、バンクーバに来るまではよく知りませんでした。アメリカには仕事が多いし、おまけに給料が良いので、たくさんの一世の男子がカナダのビクトリヤやバンクーバからアメリカへ入りました。

シヤトルへ来て、夫は東洋運送会社の奥田平次様等のお世話でモンタナ州ミゾウラへ鉄道働きに行った。日本人ばかり大ぜい働いて居たが、その中に白人のホーマン(注: 現場監督 foreman)と日本人のホーマンが一人居られて、高橋さんとか松本さんとかいう人が「もっとボーイがたくさんいるから、目当てがあったら誰でもよいから大勢つれてきてくれ」と言われたので早速バンクーバにもどり、仲間を何人かつれてきて一緒に鉄道働きをした。其の頃の一世のアメリカ入りのほとんどは密航か密入国でした。日本に一番近く、しかも旅券が取りやすいバンクーバーに来てチャンスを待つ日本の若い衆がいっぱいいました。新しい線路敷が毎日の仕事でした。発破 ( ハッパ) をかけて岩を爆破する危ないこともしました。夫はブックマンとして帳簿付けの仕事もしました。

ひと昔前までは、鉄道工夫の仕事はみなチャイニーズがしていたのですが、一八八二年にきつい中国人排斥移民法ができて、中国人労働者の移民が禁止となってしまいました。夫のギャング(注: gang 一団)には、百人ほど働き人がいましたが、皆日本人でした。ここで、久徳の小財新弥さん等も一緒でした。皆の寝泊りは貨車の中か粗末な小屋でした。給料は一日に一ドル六十仙ほどもらいました。為替相場は一ドルが日本金の二円で、一時間の給料は日本の一日分くらい、日本の十倍くらいもらいましたが、一日十時間労働で日本では想像できないほどの重労働でした。三年働けば日本に帰ったら家がたつと言って、みんな辛抱しました。モンタナは寒暑のきびしい所です。特に冬は零下何十度にもなり、立ち木も土も凍る厳寒でした。其の当時は、ラジオもテレビもありません。寝泊りするキヤンプのあるところは前に広い野原があったが、毎日只土砂運びの作業ばかりで、たまの休みにミゾーラの町へ遊びに行く他には何の楽しみもないので、仕事の後は仲間と毎日只「花引きバクチ」と「サイコロとカードバクチ」を楽しみにしてたと言ってました。しかし、バクチは負けることも多く、仕事が仕事だけに負けた時は本当にくやしかったそうです。

宿賃と食費を払ってもかなり貯金ができたし、バクチしか楽しみのない生活に終わりを告げて、日本へ帰って小さい商売でもしようかと思って手紙を送った所へ、日本の親から手紙が来て「十二月二十五日に家がまるやけになった。今帰るな」と書いてあった。しかも、火元で隣家の倉や納屋など入れると全部で八棟も焼ける大火事になった。親の不調法でお前の頭が上がらぬような事をしたが、どうかゆるしてくれとの親からの手紙を見て、大いにおどろき一時ぼうぜんとして如何したらよかろうかと考える内、ふと「自分は十七、八才の頃からバクチが好きで親の意見も聞かなかった。そして今まで天下の宝をもてあそび、しまりのない生活をしてきた。これはわしへの天罰だ」とさとり、「今日限り。バクチはやめる」と決心し、ここに居ては仲間が遊ぶのを見てたらやめられんから、ここから出る事に決心して持ち金を日本に送り、少しでも火事見舞にして下さいと書いた。千代吉二十五歳の時でした。

一九〇二年(明治三十五年)の早春、同志の仲間と貨物列車の空貨車に飛び乗り、ワシントン州のオーバンの近くのクリストパあたりでブランケットにくるまって飛び降りた。そこには親友坂上又次郎さん(多賀町富之尾出身の人)がポテト作りをデーオーク(注: 日雇い仕事 day work)でして居られたので、一緒にデーオークのポテト作りを始めた。しかし、これはうまくいかず失敗だった。秋から冬は薪切の仕事や山開きの仕事を友達五六人と一緒に「オーテン」へ行って「コントラク」して働いた。其の時、だんご汁を毎日食べてたので栄養不足で夕方になると酉目になり、目が見えぬようになる人が何人も出たので、農家へ行って玉子を買ってきて食べるようにしたり、野ウサギを見付けたら野ウサギを捕って食べたのやと其の話のこと、何度もよく聞いた。この山開きの「カンツラク」は失敗で、「一日十仙デーによりならなんだ。あの時は苦労したんだ」と話しました。アップルをひろって食べたり、グリーンのも食べた。白人の子供がちぎって食べさしをほりよるので、もっとほってくれと言って皆で拾って食べたと笑い話のように話しましたが、是はほんとうのようです。もう其の頃には、アメリカに来て鉄道働きをして以来、三年が過ぎて「三年在住」の確かな記録があるので、正式に永住権がもらえたので大手を振って、若さにまかせて畑をリースして野菜作り、日雇い仕事、薪仕事など色々なことをして少しずつお金を貯めました。

明治三十七年(一九〇四年)「オーバンの田舎町で白人のレストラン洋食店を譲り受けて始めたから嫁をもろて送ってください」と久徳の両親の所へ手紙が来た。「背の高い丈夫な女をもろて送って下さい。教育は一寸手紙の読み書きできたら結構です」と書いてある。それで両親は、母親の親元の隣村多賀の清水久七おじさんに頼まれたので、久七さんはアメリカ行きの娘さがし。当時はアメリカなど知らぬ遠い所へ行く人はなく見付からん。

私勢んは、明治十八年(1885年)七月十二日、滋賀県犬上郡多賀村多賀で古川源蔵(幼名は卯之吉)、古登の長女として出生。イザナギ、イザナミの二尊をおまつりする多賀大社のある所です。弟は源之助と源七、妹は美登。多賀小学校を明治三十年に卒業しました。そして、十七才の時から横浜へ女中奉公に出て、多賀町出身の藤山久吉様方(呉服屋}に行っていた。(注: 奉公中にのちに出世した息子の子守をした。)十九才の時、縁談があるからおひまをもろうて帰るようにと両親から手紙が来たので、帰りました。それで、先方の事を色々ききました。それは隣町、高宮の商家への話でしたが、私はもっと遠い所へ行き度いとお断りしたのです。

其頃丁度、清水久七様がアメリカへ行く娘さがしをして居られたので、私の松宮孫太夫叔父さんが「おせんはいつも遠い所へ行き度いと言ってたで、アメリカなら遠いからよいだろ。千代さんは多賀の学校でわしと一緒だったから知ってる。同年や。丁度よいやないか。」と言われた。又、母の実家の松宮のおばあさん祖母が「千代はハキハキした子や。あの子ならお勢んをやってもよいやろ」と言われたので、両親は夏原の事は知らんのですが、「お前はどう思うか」と私に尋ねましたが、アメリカときいてすぐ返事はできませんので、よく考へますと言って置きました。

其の内、アメリカから洋食店の表で白いコック服着て立ってる夏原の写真送ってきました。それで松宮のおじさんが、おせんも写真をとって送ったらよいやろとすすめられたので、松宮の叔父さんは写真屋さん〔小松写真館〕でしたから、すぐに写して送りました。〔注: 其の時の写真は今も残っています。〕

双方の両親の間で話がすすみ、それで遠いアメリカに居る人と写真結婚をするようになりました。写真結婚は入籍して六ヶ月過ぎないと旅券が下附にならんのですが、正式に夏原家に嫁入りしたら、三ヶ月位で下附になるだろと役場の人が申されたので、支度をして三月十八日に夏原の両親の家へ正式に嫁入りして、両家の親類皆集まって披露宴もすませました。二日里帰りは夏原の母さんが送って下さり、三日帰りは私の母が送ってくれましたので、私はそれから夏原家に居て家事色々、百姓仕事の手伝いをはじめました。五月一日に、まだ見ぬ夫へはじめて手紙を書いて送りました。「横文字は読めませんが、あなたから来た状袋(封筒)の表書きを見て、はじめは板にうつしてなんべんもなずってけいこして、やっと新しい状袋に住所を書いて送りますから着いたら返事をください。」と書きましたが、其の返事に「今まで両親は新屋の甥に表書きを書いてもろて用事の手紙が来たが、今からお前が両親の言う事を書いて送ってくれ」と書いて来たので、それから渡米するまで手紙で交際しました。

入籍して六ヶ月すぎないと旅行免書(注: 旅券)は下附にならんので、老父母は農業をしていますので渡米するまで百姓の手伝いをして居ました。私の実家も百姓でしたから両方の手伝いをしていました。そのうち、夫から渡米するまでに京都の御本山にお詣りして御法主(注:ご門主)様から「おかみそり」を受けてくるようにと手紙に書いてますので、早速私の母とお姑さんと三人で本願寺へおまいりいたしました。お寺の事務所で申し込みをして、翌日早朝たくさんのお同行の方々と一緒にゴモンゼキ御法主様のおかみそりを受けて法名(ほうみょう)と懐中名号(お札)をもらいました。その前日、私たち母子達は、はじめ石山寺へお詣りして大津の三井寺様にお詣りして山から下りて疎水(注: 琵琶湖の水を京都へ流す水路)の小舟に乗って京都へ着き、清水寺、三十三間堂、知恩院其の他色々見物させて頂きました。


九月になって漸く旅行免状は下付になりましたが、其の当時近くの知り合いの中に一人も米国行きもカナダバンクーバ行きの人もありません。父母が遠い知らん所へ若い娘を一人で出すのは不安で心配やと申しますので困っていました所へ、近所の小財すみさんがおいでになり、「アメリカから私にも来いと言って呼び寄せの手紙と書類が来たから私も息子をつれてアメリカへ行きますから一緒に行きましょう。千代さんを私はよく知ってるからつれて行ってあげます」と申された。それで両親もよろこび私も一安心して、おすみさん等の旅券の下附になるのを待ちました。小財すみさんは、オーバンの小財新弥さんの妻ですが、新弥さんはアメリカの生活も安定したので、五六年ぶりに妻子(四十三才のおすみさんと当時六才の儀三さん)を呼び寄せて再会される事になったのです。お其の内、お正月も過ぎ、明治三十八年(注: 一九〇五年)になりました。

五月十九日横浜発の日本郵船神奈川丸に乗船することになり、横浜の大勢屋旅館へ三人で行って色々手続きして、目の検査に大勢屋から十一人行ったが其の時トラホームとかの流行で、とても検査がきびしかったので十一人の内、二人合格九人不合格になりました。米国へ一人夏原勢ん、カナダバンクーバへ一人尾本増右衛門(彦根の大藪か八坂の人)。おすみさんは儀三さんが不合格になったので、この子一人置いてはいけませんからつぎの船まで待ちますと言って帰られました。

折角一緒に行けると思ってよろこんで居たのに、一人になりました。ある人は、神戸で乗船するつもりが、目の検査で不合格になり、横浜へ来て又不合格になった人が何人か居られるとききました。あの当時は、トラホームとか目の検査がとてもきびしかった。話し変わって、当時は日露戦争の最中でしたので、横浜の新聞に今露艦がロシヤ沖に出て居るから「キケン」と書いてあるので、他の旅館に居た人で目の検査に合格したけれど、おそれて行くのをやめた人が何人か居られると聞きましたが、私はココまで来て目の検査も合格したのだからこんな事におそれず、死ぬ時はどこに居ても死ぬだろうと決心して乗船しました。

明治三十八年五月十九日午後三時出帆、見送りの人々皆帰られ、私は一人甲板に立っていつ日本の土をふむ事ができるかしらん。父母や弟妹等の事を思ひ、心淋しくなり涙がながれました。次第に船は陸を離れ、やがて富士山も見えんよになり、日の入りごろ遠くに黒い嶋のように見えるのは金華山(注:宮城県の牡鹿半島南東の沖合の島山)と聞きました。あの尾本増右衛門様は私の父位の方で、大勢屋からご一緒でしたから、乗船した時私等の荷物重い物皆運んで下さいました。最初の夕食は、赤飯でおいしいご馳走が出ましたが、まもなく船酔いで寝たきりになりました。がんばって起きようとしても、目まいがして胸がむかつきくるしみました。一週間何もノドを通らなかった。 ひどく弱りましたので、尾本様が親切に船医をよんで来て下さいましたが、ダクタは私の顔見ただけで「船に酔ったのは一ヶ月何も食べんでも死にませんよ」と言って、おくすりも何もくださらなんだ。なさけなかった。尾本さんが「私はバンクーバへ行ってシキナのサモン、シャケ取りの仕事に行きます。シャケ取りのシーズンがすんだら日本へ帰ります。妻子が日本に居りますので、シーズンが終わったらすぐ日本に帰ります。そして又春に行くのです」と申された。それで、神川丸がカナダのビクトリヤに入港した時、すぐカナダの連絡船に乗りかえて行かれました。私は船がビクトリヤへ入港したら船酔いはうそのようにとれて、気分もよくなりました。

翌日、六月一日、船はシヤトル スミスコーフへ入港しました。乗客がだんだんと上陸されるのを見ていました。此の船で日本から来た私達写真結婚の娘四人は戸籍謄本と旅券を持っていましたがアメリカの結婚ライセンスを持っていなかったので移民官が上陸を許してくれず、夫の出迎えを待ちました。渡米する前に、夫から「日本着はいらんから中位の洋服を買って来い。又ほかに入用の物はこちらへ来てから買う」と手紙に書いてましたので、小財すみさんと彦根に行って、紅屋洋服店でスーツを一揃ひ注文しましたが、帽子はなかったのでシヤトルへ船が入港したとき、私はすぐ手紙を書いて帽子だけ買って迎ひに来てくださいと手紙を書いて上陸なさる人に出してもらいましたら、二日目に「キレイナ」ストローのハイトンの帽子を持って夫がきました。

私と熊本県出身の山内さんは、六月三日私達二組の結婚式に移民官と日本人の牧師さんが船までお出で下さって式をすませてくださったのです。船の一等室のキレイなパーラで、船の船長様はじめ船員が十人ほど列席して居られました。それで、牧師さんがキリスト教式で何かおいのりをして下さったが私は何もわかりませんでしたが、終わりに終生苦楽を共にせられんことを誓われたしと申されたので、礼拝しておじぎをいたしましたら両人同士セキハン(注: shake hand のこと)しなさいと言われ、手をにぎらされたら式はすみました。其の時、夫は二十八才、私は十九才でした。私は山内さんと相談して五ドルづつ出して計十ドルを牧師様にお礼として差し上げました。マリッジライセンスは一ドルか二ドル手数料を支払い、あとで送っていただきました。式がすむと、すぐ上陸できました。

背の高い健康な嫁を送って下さいとの注文だから、お父様に似て背のたかい大きな丈夫な人だろと思っていましたら、お母様に似て背がひくいので夫より私の方が背が高いので、人様の前一寸はづかしく思ひましたが仕方ない。シャトルへ上陸して一寸記念の写真とってから町で衣類や色々入用の品物を買ひシヤトルで一宿しました。白人の大きな店で白いレースのブラウスと裾の長いみどり色のスカート、靴などを買いました。そのころ「ラッパ」という木綿のサラサの普段着も買ってもらった。当時、ミスは短いスカートをはき、ミセスは引きずるくらい長いスカートをはいていたのも私には珍しかった。翌日六月四日、古屋商店で食料品グロセリ物を買って、午后の電車でオーバンへ来ました。友人の小財新弥様が内の馬車でリポ(停留所 depot)まで迎ひに来てくださいましたので、住家まで2マイルほどワゴン馬車で来ました。オーバンの街を通った時、「昨年一年洋食レストランをしたが、日本人がはじめたら良いお客がこんよに(来ないように)なったので一年でやめたのや。それでこんどはイチゴ作りを始めたのや。」と申して、町から2 マイル東に十エーカの土地をリース「借地」して、ストロベリを植え付けてました。私はレストランだと思って来ましたら、一年でやめたのやと申して、丁度ストロベリ苺作り百姓を始めたところでした。

其の当時、オーバンは小さな田舎町でした。町から離れた小さい粗末な家の前にぼんやりと立って、あたりをながめたら地主の家は近くにあるが、あとは遠くに家があちこちにぽつぽつと見えるだけです。アメリカはもっときれいな所だと思ってたのに、こんなさびしい所には長く居たくない。一生けんめ働いて早く日本へ帰り度いと思って、いつまでもぼんやりと外に立っていましたら、夫が「この家をたてるのに 材木材料代五十弗買って友達三四人に手伝ってもろて建てた家だよ。オーバンには日本人が今十人あまり居るが自分の家を建てたのは僕一人だよ」と言って威張って居りましたが、ベッドルームとケチンの二部屋だけの粗末なものでした。水は二百フイートくらい離れた地主のところまでもらい水でした、バケツや石油カンで運びました。洗たくや行水のお湯は戸外でわかした。便所は家の裏百フィート位の所に建てられていました。私のアメリカ生活の始まりはこんなものでした。

この家に来た翌日から畠の草取りの仕事でした。そして次の日曜日に友達を十人ほどお招きして、ささやかながら披露宴をいたしました。ご馳走はまだ日本酒はありませんので、何とかワイン、おサシミは大きな「ハラパ」白身の魚です。ウイニーとブロニー大きい分のフライやスライスして大きいオレンジスライス、オスシは五もくずし等どんと作ってありました。私は何もわかりませんので、夏原家の友人のコックか上手な人が仕度してくださったのです。二十代から三十代前後の男子ばかり十人あまり居られて、婦人は一人も居られんので私が「オーバンには日本人女の人は居られませんか」と尋ねたら「今までは一人も居りませんでしたから、あんたはパイオニヤですよ」と言われておどろきましたし、さびしいなと思いました。はたち(二十歳)の誕生祝いは無しでした。

しかし、それから二ヶ月後の七月下旬、同村の小財新弥様が妻子を呼び寄せなさいました。小財すみさん母子がキャナダの船でバンクーバに上陸したと手紙が来たので、新弥さんはすぐ迎ひに行かれました。当時はデンポもデンワありませんから、いそぐ用事も手紙がたよりでした。おすみさんとボーイさんが、無事に渡米されて近くにお住まいでしたから、おばさんが来て下さったように心にぎやかになりました。私は久徳夏原家に一ヵ年居りましたが、おすみさん方はお宮さんの前の近所でしたのでいつも心易くして居りましたのです。ここで又一緒になり、お互いに励まし合ったり、一緒に仕事に行ったり、郷里の事を話したりしました。

シヤトルの日本字新聞 北米時事を読んでましたので日露戦争に勝ったことは知っていましたが、おすみさんから日本での戦勝祝いの模様をいろいろ聞きました。しばらくして、マサチューセッツ州ポートマスで開かれる講和会議に出席するために外務大臣小村寿太郎全権がシヤトルに上陸された記事と写真も見ました。時の大統領は日本びいきのテディ.ルーズベルトでしたので、日本人に対しての排斥はありませんでした。九月に入ってハップスつみが始まりました。近くに白人が作っているのです。日本人も白人も大勢つみに行かれるので、おすみさんと私もつみに行きました。大きな箱にハップスの花を一っぱいつんだら一弗テケツ(チケット札のこと)をくれるのです。男子は二弗位つまれたでせうが、私等は朝から夕方までかかって一弗よりできませなんだ。十月に入ってポテト堀りが始まったので、おすみさんと一緒に遠い所まで歩いて行って芋掘りの仕事したが、芋掘りはとても力仕事です。「ピースオーク」ですから、上手な方はたくさんもうけられたでせうが、私は一生けんめいで一日二弗よりできませなんだ。芋掘りも十月から十一月初めにシーズンがすんで、秋冬は男の方は「マキ切り」や山ブラシ切りの仕事でした。女は家事ばかり。私は毛糸を買って毛糸で色々あみものして楽しみました。又、夏の手まわしに針仕事など。寒い日には、夫からベカリ(注ベーカリーのこと)、洋食料理や朝のパンケーキ、カップケーキ、ビスケット、パイ色々、アップルパイ、レモンパイ、ミンツパイ、色々作り方を教へてもらいましたので、ぼつぼつと自分で作って楽しみました。朝のパンケーキを作る度に、日本の両親に此のおいしいケーキやパイなどたべさせ度いなと心にかかるばかりで送る事もできず、残念な事やもったいない事やといつも思いました。

この家は、やはり素人が建てた家ですから隙間だらけでした。冬が来て、寒い夜ストーブをいくらたいても暖かくならないので、地主から古新聞をたくさんもらってきてメリケン粉でノリをこしらえて隙間に二重に目張りをした。そして目張りを乾かすために消し炭をおこして薪を入れて寝たところ、頭がガンガン痛むので目がさめました。ドアをあけて寒い風にあたりながら雪を食べたらよくなりました。きれいに貼り過ぎて、もう一寸で死ぬところでした。

私は妊娠してつわりがひどくて困りましたが、1906年(明治 39年)四月にお蔭さまでぶじに長女を出産いたしました。大いに安心よろこんで居りましたら、一ヶ月後五月二十三日に亡くなりました。(長女の名前は私と夫の一字をとりチセ)其の当時はオーバンにもタマスにもお寺はありませんのでシヤトル仏教会の初代開教使中井玄道先生をお願ひしてかなしい葬式をして頂いたのです。子供は全部で十一人授かりましたが、チセははじめての子でした。こんな時、日本の親が近くに居てくれたらと、マント.レ二ヤを見るたびに思いました。レ二ヤ山は富士山に格好が似ている高い山でどこからでも見えますが、タコマの方から登るので日本人はみんな「タコマ富士」と呼んでいました。

五月中旬からストロベリつみが始まり、六月七月上旬まで忙しかったのです。親友の坂上又次郎さんが七月四日(注: 独立祭の休日)にはツラウトをたくさんつってごちそするからワイフつれて遊びにこいと言ってくださったので、私はどこへも行った事がないのでよろこび、たのしみながら二人でオリリのストロベリーつんだ分をシヤトルコミッションハウスへおくるので、夫は N.P.(注: ノーザンパシフィック鉄道) リポ(注: 駅 ディポのこと)へ送りに行き、ミルク会社六時の笛鳴る時帰ったが、それから馬を入れにパスチャへ行きました。

帰ったら手伝いにくると言ってましたので、私は一人で一生けんめい終わりの苺をつんでましたが、いつまで待っても来ませんので、ふっと今日はとても日中暑かったので、もしや気分が悪いのではないかと思って日の入り九時になったのでやめて帰りましたら、裏口の戸があいてるのです。すぐ家に入ったら、夫はベッドルームでフトンを頭からかぶって大きいイビキをかいてましたので、私はすぐ気分がわるいのですかと言ひながらフトンを取りのけたら、顔一めん血で目も鼻も口もわからんので、私は大いにおどろき「だれとけんかしたのですか。」インデアンが家の前をよく通るので彼等にたたかれたのかと尋ねたら、「どうもしやせん。ああ、寒い寒い」と言って又フトンかぶって、「どうもしやせん」といってますが、医者さんを来て頂くと言ったら、やはり「いらんいらん、どうもしやせん」と言ってます。

私は小財さん方へとんで行って、夫が大けがしてますからオーバンへダクタをたのみに行って下さいとたのみに行ったら、小財さん等はポテトの草取り仕事をして帰り食事もすみ足あらってねよ(注 寝よう)と言ってなさる所でした。すぐ見に来て下さって、おすみさんが「千代さん、どうしたのや」と言われたら「馬がけりよったのや」と申しましたので私はホットしました。人間にたたかれたのだったらどこかへ届けんならんが、自家の馬でけがしたのだから、さいなんと思って早速オーバンへドクタ医者をたのみに行ってもらいましたら、十二時頃来て下さった。すぐおゆをわかせと申された。せんめんきに石たんさんか何かしょうどくざい、顔一面きれいに洗ってきづが大きいので針でぬわんならんから「まやく」をかけようとされたら「ああ死ぬ。生薬くれ、生薬くれ」と言って,ダクタの手をはねとばしたり手にかみ付くので「今はどうもできん」と言ってダクタは帰られた。「本人がなおしてくれと言ったら又来てあげるが今は気が立って居るからどうもできん」と言って帰られた。それで、私は一人でわち(注: 英語の watch 診る、看る)しますからと小財さん等は帰って頂いた。そして私一人夜あけまでかんご。えらいからおこしてといわれ、おこしてあげたら、すぐえらいからねかしてくれと五分もおちつけず、其の間にはお母、姉さんとよびつづけて、私を見てはかわいそうにと言って目になみだして、只えらいえらいと言っておこしてくれ、すぐねかせてくれ。

白人のダクタが折角来て下さったのになぜ治療して頂かなかったのです。このまま血が止まらなかったら大へんなことになりますから、シヤトルの日本人のダクターをたのみませうかと申しましたら、一どにうんと返事しましたので、新弥さん方へ行き、シヤトルの日本人の医者さんをたのんで下さるようにお願いしました。この当時、日本人は男子ばかりですから、大きな家をレントして五六人一緒に住んで、毎日マワリコックして働いて居りました。町の酒屋に働いて居られる日本人、朝は四時から仕事に行かれるときいてたので、友人日浦さんにデンワで日本人の医者さんを来て下さるようにたのんで下さいと言ひましたが、デンワかからんので他の人に話したら、今朝まわりコックで早く起きた人が「僕が一ばんの電車でシヤトルへ行って友達にきいて外科の医者つれて来てあげよ」と言われたとのことでした。私は、お出で下さるのを待ちましたら、丁度十一時に赤松ダクタがお出で下さって早速白人のダクタと同じようにお湯を沸かせと申され洗面器にせきたんさん入れ、きれいにしてまやくをかけて治療、傷口から空豆(注 そらまめ)位のかけた骨を取り出して「みけん」を八針もぬって下さったのです。まやくをかけられる時、やあ死ぬ。生薬くれ、生薬くれと言ってさわぎましたが、其時は友人が五六人も見舞にきて下さったので、手も足もおさえて手伝って下さったので早くすみました。其時ダクタが「是傷は急所をのがれたから生命はたすかったが、今後養生が大切だ。なんぼ暑くても外へ出してはならんぞ。外の暑い風、寒い風にあたったら、ある命もないよになるから決してここから出してはならんぞ。あまりさわいだら、「ベッド」にくくって置け。三日したら見に来てあげる」と言ってダクタは帰られました。


手術後まやくがさめるまでは、らくそうにいびきかいて休んでいましたが、そのまやくがさめだしたら「ああ暑い暑い。外へ出たい。ばん(農機具倉庫 barn)の方で草の上でねたい」とさわぎ出したのです。ダクタが注意された事を言いきかせても気が立ってるから耳に入らんのです。ドワしめて出られんように四五人の友達がワチ(注: watch のこと)して下さったのですが、ベッドの上に立ち上がって何でも手あたり次第にみんなぶち付けてランプのほやまでぶち付けても出られんので「みんなが寄ってわしをころしよるー」と大きいこえでどなりますので、ほんとに困りました。私は生命だけはおたすけくださいと一心に神仏におねがいして居りましたが、当時の事思い出すと今も頭が痛くなりますから書く事やめます。

神仏様のお守り下さるお蔭様で、少しづつ快方にむかひました。七月下旬には生命だけは助けて下さったと、少し安心しまして、日本の夏原家の両親に「千代吉どのは七月二日に自家の馬で大けがいたしまして大心配しましたが生命だけは神仏様の御蔭様で助けていただきましたから御休心下さい」と書いて手紙を出しました。丁度八月二十三日は多賀村の地蔵盆で夏原のお父さんはよばれて行かれた時「おせんから千代吉が七月二日に自家の馬で大けがして大へんだったが、生命だけは助かったから御休心下さいと手紙が来た」と話されました。私の両親は大いにおどろき、私の父は其の夜から気分が悪くなり、翌日一日の病ひで亡くなりました。九月に入って、日本からたくさん手紙が親類から来たので、見舞の手紙だろと思ひながら母のてがみを先に開けてよみましたら、思ひがけない父の死去の知らせでした。

母のくわしい手紙に、「千代吉どの大けがした事きいた時、大へんおどろきました。父は其の夜から気分がわるくなり、わずか一日の病ひで亡くなりました。そして、父が「おせんにあいたい、おせんにあいたい」といわれた」と。母の手紙よんで私は胸がせまって、目の前がくらくなって、おどろきとかなしみでぼうぜんとして居りましたが、父は私の夫千代吉の身がわりになって下さったのやと私一人心にさとしました。私は長女で、父は大へんかわいがり大事にして下さるやさしい父でしたのに、遠いアメリカへ来てまだ一年一ヶ月位で、手紙もまだ二三回より出して居りませんので、心配をかけたばかりで、まだ一度も安心よろこばす事もできませなんだので、父には大不孝。ざんねんでなりません。

一世パイオニア資料館 - isseipioneermuseum.com - 2010